親政の確立とは? わかりやすく解説

親政の確立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 08:52 UTC 版)

安帝 (漢)」の記事における「親政の確立」の解説

建光元年121年春正月幽州刺史の馮煥が二つの郡の太守率いて高句麗濊貊討った成人後安帝外戚の鄧氏に反発するようになり、その影響からか生活に乱れ生じていた。また閻氏を立后するが、安帝の子もうけた他の后妃殺害するなどを行っていた。 3月長く臨朝して政治実権握っていた鄧綏死去すると、鄧騭は大将軍辞任し特進待遇となった安帝は、4月実父実母らに皇帝皇后追尊する一方で楽成王劉萇を罪に問い侯に降格させている。5月には閻氏や宦官閏らの助力得て、鄧騭や鄧遵ら、鄧氏一族粛清し、また平原王劉長を罪に問い侯に降格させた。秋7月には大赦実行された。太尉の馬英が死去し、前の司徒劉愷太尉となったこの間、夏4月濊貊が再び鮮卑組んで遼東侵攻し遼東太守蔡諷戦死している。また、遼東属国都尉の龐奮が偽の璽書受けて玄菟太守姚光殺害するという事件が起きている。8月には護羌校尉の馬賢が焼当羌と金城で戦った鮮卑居庸関侵攻し9月雲中太守の成厳が戦死し鮮卑烏桓校尉馬城において衝突し度遼将軍となった耿夔がこれを救援した鮮卑動きは収まらず、玄菟郡攻撃した。冬11月には漁陽に営兵が初め設置された。冬12月高句麗馬韓濊貊玄菟城を襲い夫餘助力得て州郡の力を合わせてこれを破った延光元年122年)、天候不順続き、夏4月司空の陳褒が免職となり、5月に劉授が司空となった高句麗降ったが、虔人羌が反乱起こし、穀羅城攻撃した度遼将軍耿夔がこれを討ち破った。冬10月鮮卑雁門定襄攻撃した11月には鮮卑太原攻撃した一方で焼当羌が降伏してきた。 延光2年123年)、冬10月太尉劉愷罷免され司徒楊震太尉にし、劉熹を司徒とした。11月鮮卑南匈奴曼柏敗れた蜀郡西部属国都尉設置した延光3年124年)春2月安帝は東に巡察し、祭祀執り行った後、3月京師帰還した太尉楊震罷免され、石為が後任となった5月には南匈奴が叛いたが、匈奴中郎将の馬翼がこれを討ち破った6月には鮮卑が再び玄菟郡侵攻した。秋7月には右校令・左校令の丞官を復活させた。8月には耿宝を大将軍任命した9月に、元の皇太子劉保済陰王とした。冬10月長安行幸した。 延光4年125年2月安帝は南に巡狩したが、3月客死した32であった従兄弟北郷劉懿章帝の孫で済北王劉寿の子)が擁立され、閻皇后皇太后として臨朝し、兄の閻顕が車騎将軍としてそれを助けた。 夏4月太尉の馮石を太傅にし、司徒の劉熹を太尉に、録尚書事前司空の郃を司徒となる一方大将軍の耿宝・中常侍の樊豊・侍中の謝惲・周広らが罪に問われ、樊豊・謝惲・周広は獄死し、耿宝は自殺した安帝は恭陵に葬られた。廟号恭宗

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親政の確立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:39 UTC 版)

孫休」の記事における「親政の確立」の解説

孫綝一門からは5人の侯が出てそれぞれ近衛兵率いており、権勢主君孫休をも凌いでいた。孫綝等に反対する者もいなかったため、ますます増長した孫休孫綝らが変事を出すことを恐れ何度も恩賞与えた永安元年258年)冬11月5日孫休は詔を出し孫綝皇帝廃立賞賛し、孫休皇帝立てるのに功績があった者の調査命じた同年11月7日孫綝職務負担軽減するため、孫恩侍中任じて孫綝事務分担することを許した同年11月21日孫休諸役軽減軍役免除認めと共に永昌亭で出迎えた者の官位一級加増させた。 あるとき、孫休孫綝からの贈り物拒絶したことがあった。孫綝はこれを恨み思い酒席張布に対して孫休廃立を口にした。張布はこのことを孫休伝えた孫休孫綝クーデター計画していると聞くと、張布丁奉らと図って対策練った。そして、同年12月8日先祖の祭のために百官公卿らが集まった場で、孫綝誅殺し、その日のうちに死刑とし、一族ことごとく滅ぼした孫休孫峻の墓を暴き削ったり、孫峻孫綝一族孫氏系図から削って故峻・故綝と呼ばせるようにしたという。孫峻孫綝のために不慮の死遂げた諸葛恪滕胤呂拠らの名誉は回復された。諸葛恪のために顕彰の碑を建てようとする動きがあったが、孫休諸葛恪生前振る舞い失策考慮してそれは許さなかったという。 同年12月9日孫休は詔を出し左将軍張布功績賞して中軍督を加官し、その弟2人武官取り立てた皇帝権力取り戻した孫休は詔により教育充実させる方針表明し五経博士設置し現在の官吏である者や部将官吏の子弟たちの中から、学問を好む者を選抜し五経博士授業を受けさせた。1年毎に試験を受けさせ、成績ランクづけし、それにより官位恩賞与えた永安2年260年3月九卿の官が完備すると、孫休は詔を出し、武より文を重視し農耕盛んにするという政策表明した同年3月西陵において赤い烏が出現したという報告があった。 同年秋、都尉であった厳密の進言受けて丹陽郡干拓事業を行うため、宛陵浦里塘という堤防築いた。この堤防建築には多く役人反対したが、濮陽興の強い勧めがあったという。しかし莫大な工事費がかかり、多く兵士死去自殺者出たので、人々はこの工事怨んだという。 会稽郡において、先帝会稽王の孫亮が、再び皇帝になるだろうという流言があった。また、孫亮巫女祈祷を行わせ、呪いの言葉発しているという内部告発があった。そのため、孫休孫亮を侯官侯に位を降格させ、任地に向かわせたが、孫亮任地赴く途中で自殺したため、孫休護送役人処刑した一説には孫休による毒殺であったともいう。 永安4年261年8月孫休光禄大夫の周奕と石偉命じて国の各地風俗調査させて、役人将軍清潔な政治行っているか、民衆が何に苦しんでいるかなどを調べた。それに基づいて地方役人昇進左遷命じる詔を下した永安5年262年8月16日夫人朱氏皇后とした。同月19日、子の孫𩅦(の下に單、読みは湾に準じる)を太子とし、大赦実行した。冬10月衛将軍濮陽興丞相任命した

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