蔡諷とは? わかりやすく解説

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蔡諷Cai Feng

サイフウ

(?~?)

襄陽の人。蔡瑁の父《襄陽記》。遼東太守蔡風とは別人

蔡氏が繁栄極めたのは後漢末期で、蔡諷は姉を太尉張温に、長女黄承彦に、末女劉表に嫁がせた《襄陽記》。永嘉年間三〇七~三一三)末期まで子孫富み栄え一族は非常に強い勢力持っていたが、草賊王如襲撃によって蔡氏一党全て死んでしまい、今では蔡を姓とする者は一人残っていない《襄陽記》。

参照王如 / 黄承彦 / 蔡氏(劉表妻) / 蔡風遼東太守) / 蔡瑁 / 張温 / 襄陽県 / 遼東郡 / 相 / 太尉 / 太守


蔡風

(蔡諷 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/27 05:50 UTC 版)

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蔡 風(さいふう、? - 121年)は、後漢遼東太守[1]

人物

後漢の光武帝建武8年(32年)、高句麗大武神王は、使者を派遣して後漢に朝貢し、その時、はじめて王と称した。殤帝安帝の時代(105年から125年)になると、高句麗の太祖大王は、たびたび遼東に侵攻したため、あらためて高句麗を玄菟郡に属させた[1]。遼東太守の蔡風と玄菟太守の姚光は、太祖大王が遼東と玄菟の二郡に対して害をなすため、軍隊を派遣して討伐しようとした。しかし太祖大王は偽って降伏し、和議を要請したため、二郡は進軍しなかった[1]。それに対して太祖大王は、軍を派遣して玄菟を攻撃させ、候城を焼き、遼隧(現在の遼寧省鞍山市海城市)に侵入し、役人や民を殺し、遼東を侵犯した。蔡風は、役人や兵士を率いて追討したが、敗れた[1]

脚注

  1. ^ a b c d 田中俊明 『『魏志』東夷伝訳註初稿(1)』国立歴史民俗博物館〈国立歴史民俗博物館研究報告 151〉、2009年3月31日、385頁。 


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