蔡風とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 人名 > 三国志小事典 > 蔡風の意味・解説 

蔡風Cai Feng

サイフウ

(?~121
遼東太守

遼東太守。「蔡諷」とも書く《後漢書》。蔡瑁の父蔡諷とは別人

句驪王宮勇壮で、その国の者に心服されており、しばしば辺境侵すことがあった。建光元年一二一)春、幽州刺史馮煥・玄菟太守姚光遼東太守蔡風らは軍勢率いて塞(万里長城)から出撃穢貊渠帥捕虜斬首して、兵馬財宝手に入れた後漢書東夷伝》。

宮は嗣子遂成二千余り授けて姚光らを迎え撃たせると同時に使者をやって偽りの降服申し入れた姚光らがそれを信じているうちに遂成険害拠って大軍遮り、(宮は)密かに三千人を派遣して玄菟遼東攻撃させ、候城県城焼き遼隊県二千余り殺傷した広陽漁陽右北平涿郡属国から三千余り動員して救援させると、宮軍は引き揚げていった東夷伝後漢書同伝》。

四月、宮は再び遼東鮮卑八千余りとともに遼隊を攻撃官吏殺害して民衆誘拐した。蔡風らは新昌まで追撃したが、そこで戦死した。功曹以下の属官身をもって蔡風を守ろうとしたが、みな陣中死んだ死者百人余り出した後漢書安帝紀・同東夷伝》。

参照】宮 / 蔡諷蔡瑁の父) / 蔡瑁 / 遂成 / 馮煥 / 姚光 / 右北平郡 / 漁陽郡 / 句驪 / 玄菟郡 / 候城県 / 広陽郡 / 新昌県 / 涿郡 / 幽州 / 遼隊県 / 遼東郡 / 遼東属国 / 穢貊 / 王 / 功曹 / 刺史 / 太守 / 鮮卑


蔡風

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/27 05:50 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

蔡 風(さいふう、? - 121年)は、後漢遼東太守[1]

人物

後漢の光武帝建武8年(32年)、高句麗大武神王は、使者を派遣して後漢に朝貢し、その時、はじめて王と称した。殤帝安帝の時代(105年から125年)になると、高句麗の太祖大王は、たびたび遼東に侵攻したため、あらためて高句麗を玄菟郡に属させた[1]。遼東太守の蔡風と玄菟太守の姚光は、太祖大王が遼東と玄菟の二郡に対して害をなすため、軍隊を派遣して討伐しようとした。しかし太祖大王は偽って降伏し、和議を要請したため、二郡は進軍しなかった[1]。それに対して太祖大王は、軍を派遣して玄菟を攻撃させ、候城を焼き、遼隧(現在の遼寧省鞍山市海城市)に侵入し、役人や民を殺し、遼東を侵犯した。蔡風は、役人や兵士を率いて追討したが、敗れた[1]

脚注

  1. ^ a b c d 田中俊明 『『魏志』東夷伝訳註初稿(1)』国立歴史民俗博物館〈国立歴史民俗博物館研究報告 151〉、2009年3月31日、385頁。 


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「蔡風」の関連用語

蔡風のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



蔡風のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
むじん書院むじん書院
Copyright (C) 2025 mujin. All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの蔡風 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS