親政期とは? わかりやすく解説

親政期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 14:00 UTC 版)

霊元天皇」の記事における「親政期」の解説

鷹司房子入内翌年寛文10年1669年)からは、霊元天皇官位叙任直接取り扱うようになり、即位以来武家伝奏勤めた飛鳥井雅章正親町実豊退任し中院通茂日野弘資後任となった。しかし度々天皇近習不行跡事件が相次ぎ幕府後水尾法皇年寄衆近習統制を、東福門院奥向き統制それぞれ求めようになった。これは年寄衆が「議奏」として朝廷運営表舞台に出る契機となった。 しかし寛文年間後期から延宝年間には東福門院板倉重矩など朝幕の有力者次々と世を去り延宝8年1680年)には後水尾法皇崩御、さらに将軍徳川家綱の死とそれにともなう大老酒井忠清失脚によって、外れた霊元天皇は自らの路線強硬に推し進める事となった。霊元関白軽視した朝廷運営に、鷹司房輔は「所詮当時の躰、摂家滅亡なり、これすなわち朝廷大乱のあいだ」と嘆いている。 延宝9年1681年2月には女御鷹司房子立后と、第一皇子一宮(後の勧修寺宮済深法親王)にかえ、寵愛する松木宗子の子五宮儲君にすることを認めるよう幕府伝達した幕府もこれを承認し一宮大覚寺に入ることとなったが、外祖父小倉実起一宮参内させないなどして抵抗した9月17日には一宮小倉邸から移動させて幽閉した。小倉翌年佐渡流刑となっている(小倉事件)。一宮天皇にとっては庶子であり、後水尾法皇儲君とするよう内定下していたが、あくまで女御鷹司房子皇子出産しない場合という条件つけられ上で内定であった前述の朝幕合意でも、一宮は一旦は皇位継承対象から排除されている)。一方で、朝幕間正式な合意による内定覆すことには公卿間でも反発強く大老堀田正俊同意であった。しかし将軍徳川綱吉天皇意向尊重するべきであるとし、一宮排斥五宮儲君化を容認した。なお、小倉事件直後11月には「おいは(おいわ)」という仮称呼び続けられていた五宮生母松木宗子正式に典侍に任ぜられて、大典侍昇進した四辻季継の娘に代わって大納言典侍称されることになった天和2年1682年)、鷹司房輔関白辞した際には本来の順序ならば左大臣である近衛基熙関白任じるのが通常の流れであった。しかし2月18日幕府側から申し入れられたのは右大臣一条冬経(兼輝)を関白にするという意向であった。これは霊元天皇自分批判的な近衛基熙排斥する意図があったための措置であり、幕府もこれを承認したのである考えられている。一方で、基熙は綱吉潜在的なライバルである徳川家宣岳父であり、また基熙自身言動幕府から無条件信頼を受ける人物ではなかったことも指摘されている。 天和3年1683年)、五宮朝仁親王(後の東山天皇)の立太子礼が行われた。これは貞和4年1348年)の直仁親王立太子以来335年ぶりの出来事であり、霊元の強い要請受けた幕府が、今後行われる皇太子の諸儀式別途支出行わないことを条件承認したものであった貞享元年1684年2月25日には譲位意向伝えたが、この際幕府から拒否された。しかし天皇貞享3年1686年)閏3月譲位了承された。

※この「親政期」の解説は、「霊元天皇」の解説の一部です。
「親政期」を含む「霊元天皇」の記事については、「霊元天皇」の概要を参照ください。

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