親政期
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鷹司房子の入内翌年の寛文10年(1669年)からは、霊元天皇が官位叙任を直接取り扱うようになり、即位以来武家伝奏を勤めた飛鳥井雅章と正親町実豊は退任し、中院通茂と日野弘資が後任となった。しかし度々天皇や近習の不行跡事件が相次ぎ、幕府は後水尾法皇や年寄衆に近習の統制を、東福門院に奥向きの統制をそれぞれ求めるようになった。これは年寄衆が「議奏」として朝廷運営の表舞台に出る契機となった。 しかし寛文年間後期から延宝年間には東福門院や板倉重矩など朝幕の有力者が次々と世を去り、延宝8年(1680年)には後水尾法皇が崩御、さらに将軍徳川家綱の死とそれにともなう大老酒井忠清の失脚によって、枷の外れた霊元天皇は自らの路線を強硬に推し進める事となった。霊元の関白を軽視した朝廷運営に、鷹司房輔は「所詮当時の躰、摂家滅亡なり、これすなわち朝廷大乱のあいだ」と嘆いている。 延宝9年(1681年)2月には女御の鷹司房子の立后と、第一皇子の一宮(後の勧修寺宮済深法親王)にかえ、寵愛する松木宗子の子の五宮を儲君にすることを認めるよう幕府に伝達した。幕府もこれを承認し、一宮は大覚寺に入ることとなったが、外祖父小倉実起は一宮を参内させないなどして抵抗した。9月17日には一宮を小倉邸から移動させて幽閉した。小倉は翌年に佐渡へ流刑となっている(小倉事件)。一宮は天皇にとっては庶子であり、後水尾法皇も儲君とするよう内定を下していたが、あくまで女御の鷹司房子が皇子を出産しない場合という条件をつけられた上での内定であった(前述の朝幕合意でも、一宮は一旦は皇位継承の対象から排除されている)。一方で、朝幕間の正式な合意による内定を覆すことには公卿間でも反発が強く、大老堀田正俊も同意見であった。しかし将軍徳川綱吉は天皇の意向を尊重するべきであるとし、一宮排斥と五宮の儲君化を容認した。なお、小倉事件直後の11月には「おいは(おいわ)」という仮称で呼び続けられていた五宮の生母の松木宗子が正式に典侍に任ぜられて、大典侍に昇進した四辻季継の娘に代わって大納言典侍と称されることになった。 天和2年(1682年)、鷹司房輔が関白を辞した際には本来の順序ならば左大臣である近衛基熙を関白に任じるのが通常の流れであった。しかし2月18日に幕府側から申し入れられたのは右大臣の一条冬経(兼輝)を関白にするという意向であった。これは霊元天皇が自分に批判的な近衛基熙を排斥する意図があったための措置であり、幕府もこれを承認したものであると考えられている。一方で、基熙は綱吉の潜在的なライバルである徳川家宣の岳父であり、また基熙自身の言動が幕府から無条件に信頼を受ける人物ではなかったことも指摘されている。 天和3年(1683年)、五宮朝仁親王(後の東山天皇)の立太子礼が行われた。これは貞和4年(1348年)の直仁親王立太子以来335年ぶりの出来事であり、霊元の強い要請を受けた幕府が、今後行われる皇太子の諸儀式に別途支出を行わないことを条件に承認したものであった。貞享元年(1684年)2月25日には譲位の意向を伝えたが、この際は幕府から拒否された。しかし天皇は貞享3年(1686年)閏3月に譲位は了承された。
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