親政運動と挫折
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/08 16:00 UTC 版)
しかし、佐々木の侍補就任直後の明治11年5月14日に大久保が暗殺されたことによって侍補らの構想への政府側の対応が大きく変化することになる。侍補らはこれを好機として2日後の16日に明治天皇に親政断行の諫奏を行い、大久保の後を継いだ伊藤博文ら政府要人に宮府一体と称する天皇の政治権能強化と侍補の政治的役割の確立を要求するようになった。具体的には、閣議に天皇が臨御すること、その時は侍補も同席して閣議内容を聞いて把握することが内容に含まれていた。しかし、この要求は宮府分離を原則として宮中側の介入を嫌う政府に否決され、天皇の臨御は認められたが政治関与は抑えられ、親政に取り組もうとした天皇は不満を感じたが、伊藤と太政大臣三条実美・右大臣岩倉具視ら政府は天皇の姿勢を軽率と判断し安易な変革は認めなかった。人事も天皇の主張は却下され、天皇は佐々木を工部卿に望んだが実現せず、代わりに汚職疑惑で侍補達から嫌われていた井上馨が伊藤の後押しで就任した。 同年12月、佐々木は海軍省御用掛に、吉井は工部省御用掛にそれぞれ政府から任命され、翌12年(1879年)3月に吉井は工部少輔になった。これは侍補への妥協案であると同時に政治思想の転換を図る政府の思惑があり、天皇は明治11年8月から11月にかけて北陸地方・東海地方を巡幸したが、帰還後は「勤倹」と呼ばれる表面的な開化政策の批判と緊縮財政を表明、これに侍補が飛びつき天皇の意思実現を目指し、5ヵ月後の3月10日に天皇は侍補らと諮問したのみで勤倹の聖旨を公布した。政府はこうした侍補らの空理空論を改めるべく彼らを開化政策推進現場へ投入、勤倹を実際にどう実現させるか、現実と妥協させて政府との共通点を割り出そうとしたのである。狙いは的中し吉井は多忙から侍補の役割を果たせなくなり、勤倹を抑え政府よりの姿勢を取り出した。また、天皇とその近臣は政治に関与すべきではないと考えていた徳大寺実則が反発して侍補を辞任、侍補らの足並みが乱れた。 元田・佐々木らはそれでも親政運動を続けたが、元田が侍補廃止を口にしたことで事態は政府有利に傾いた。元田は廃止を楯に政府から譲歩を引き出すつもりだったが、失言を捉えた政府はそれを許さず10月13日に侍補は本当に廃止された。こうして政争は侍補側の敗北に終わったが、天皇は元田・佐々木・高崎らに対して同情的であり、侍補廃止に際して彼らにいつでも建言する事を許す待遇を与える(『明治天皇紀』)などし、かえって彼らを重用するようになった。
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