親政運動の推進
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天皇の教育は漢学を重視して『論語』『日本外史』を進講し君徳培養に努め、明治5年(1872年)に太政大臣三条実美に宛てた手紙で儒教による天皇の精神的成長を願う反面、文明開化を批判的に見ていた。明治6年に「君徳輔導の上言」を起草し岩倉具視に提出した。また宮中と府中(政府)の分離も気に食わず、両者一体となり天皇の輔導に尽くすべきと主張、名実共に天皇を頂点とした政治体制を主張し始めた。その後は侍講となり明治10年(1877年)に侍補も兼務し、共に侍補となった吉井友実・土方久元や、翌明治11年(1878年)3月に新たに加わった佐々木高行と共に天皇の輔導を更に推し進めていく。 5月14日に大久保が不平士族に暗殺され、伊藤博文が大久保の後を継ぎ内務卿として実質的な政府首班に就任したが、元田ら侍補は政府の危機と感じて2日後の16日に天皇に親政実行を直訴、続いて政府にも天皇の閣僚会議臨席および侍補の同席を求めた。しかし、宮中の政治介入を嫌う政府により後者は拒否、前者は採用されたが天皇が政治を行う機会は与えられず空文化に終わったため、翌明治12年(1879年)3月に政府に天皇親政を中心とした改革案を提出したが、やはり否決された。焦った元田は侍補廃止を主張、それを受け取った政府により本当に侍補が廃止され、天皇親政運動は頓挫に追い込まれた。 政争に敗れたとはいえ天皇の信任は厚く、皇后府大夫として宮中に留め置かれた。また思想実現を諦めず天皇中心の国家を教育視点に移し、仁義忠孝を重んじた教育を通して国民の天皇への忠誠心を高める方法の実現に動き出し、同年7月に『教学聖旨』(「教学大旨」及び「小学条目二件」)を起草したが、9月伊藤にすぐさま反論され『教育議』が天皇に提出されると更に「教育議附録」を草して反論、収拾がつかなくなり天皇の判断で『教学聖旨』は破棄された。その後明治13年(1880年)に大隈重信の外債募集による政争で佐々木・土方らと再度親政運動の実現に奔走したが、翌14年(1881年)に伊藤が大隈を追放(明治十四年の政変)、親政運動も消滅したことにより一連の運動は挫折したが、元田の意欲は衰えず同年の『幼学綱要』の編纂・頒布(後に刊行中止)、明治13年に天皇中心の国民教化を主張した『国憲大綱』の提出(政府により却下)など独自の国教案実現に向けて進んでいった。明治17年、「国教論」を草し、伊藤博文に示し、儒教を根幹とする国教の確立を説いた。
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