親政運動の推進とは? わかりやすく解説

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親政運動の推進

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/06 14:39 UTC 版)

元田永孚」の記事における「親政運動の推進」の解説

天皇教育漢学重視して論語』『日本外史』を進講し君徳培養努め明治5年1872年)に太政大臣三条実美宛てた手紙儒教による天皇精神的成長を願う反面文明開化批判的に見ていた。明治6年に「君徳輔導の上言」を起草し岩倉具視提出した。また宮中府中政府)の分離も気に食わず両者一体となり天皇輔導尽くすべきと主張名実共に天皇頂点とした政治体制主張し始めたその後侍講となり明治10年1877年)に侍補兼務し、共に侍補となった吉井友実土方久元や、翌明治11年1878年3月新たに加わった佐々木高行と共に天皇輔導を更に推し進めていく。 5月14日大久保不平士族暗殺され伊藤博文大久保の後を継ぎ内務卿として実質的な政府首班就任したが、元田侍補政府危機感じて2日後16日天皇親政実行直訴続いて政府にも天皇閣僚会議臨席および侍補同席求めた。しかし、宮中政治介入を嫌う政府により後者拒否前者採用されたが天皇政治を行う機会与えられ空文化に終わったため、翌明治12年1879年3月政府天皇親政中心とした改革案を提出したが、やはり否決された。焦った元田侍補廃止主張、それを受け取った政府により本当に侍補廃止され天皇親政運動頓挫追い込まれた。 政争敗れたとはいえ天皇信任厚く皇后府大夫として宮中留め置かれた。また思想実現諦めず天皇中心国家教育視点移し仁義忠孝重んじた教育通して国民天皇への忠誠心高め方法実現動き出し同年7月に『教学聖旨』(「教学大旨」及び「小学条目二件」)を起草したが、9月伊藤すぐさま反論され『教育議』が天皇提出されると更に「教育議附録」を草し反論収拾がつかなくなり天皇判断で『教学聖旨』は破棄された。その後明治13年1880年)に大隈重信外債募集による政争佐々木土方らと再度親政運動の実現奔走したが、翌14年1881年)に伊藤大隈追放明治十四年の政変)、親政運動消滅したことにより一連の運動挫折したが、元田意欲衰えず同年の『幼学綱要』の編纂頒布(後に刊行中止)、明治13年天皇中心国民教化主張した国憲大綱』の提出政府により却下)など独自の国教実現向けて進んでいった。明治17年、「国教論」を草し伊藤博文示し儒教根幹とする国教確立説いた

※この「親政運動の推進」の解説は、「元田永孚」の解説の一部です。
「親政運動の推進」を含む「元田永孚」の記事については、「元田永孚」の概要を参照ください。

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