めいじじゅうよねん‐の‐せいへん〔メイヂジフよネン‐〕【明治十四年の政変】
明治十四年の政変
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明治十四年の政変(めいじじゅうよねんのせいへん)とは、明治14年(1881年)10月に参議大隈重信が明治政府中枢から追放された事件。自由民権運動が勃興する中で発生した開拓使官有物払下げ事件に端を発した事件であり、大隈と大隈系官僚が政府から去ったことにより政府内の構造が大きく変容した。
- 1 明治十四年の政変とは
- 2 明治十四年の政変の概要
明治十四年の政変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 21:34 UTC 版)
1881年、明治十四年の政変。ボアソナードは政府の諮問に応えて、大隈重信が主張するイギリス流の議院内閣制の採用は時期尚早と主張、政府の方針決定にも影響を与えた。 政変後、フランスを参考に参事院(現内閣法制局)が設置され、民法編纂総裁が伊藤議長に代わる可能性があったが、元老院議官の水本成美や津田真道の働きかけにより、大木がその地位に止まった(商法・訴訟法からは撤退)。 その後、商法はロエスレルに(明治14年)、民訴法はヘルマン・テッヒョーに(明治17年)、裁判所構成法はオットー・ルードルフ(ドイツ語版)(明治21年)に、いずれもドイツ人に起草が委嘱されたのを政変に起因する政府の方針転換の現れとする見方があるが、ロエスレルは反ビスマルク・反ドイツの危険人物と目され、伊藤も承知していたが引き続き重用され、憲法草案をも起草したという側面がある。また民訴法に関しては、テッヒョーが判事・検事として実務経験があり、自国法にも固執しない立場だから適任だったに過ぎない(染野義信)、あるいは仏民訴法典は民法と比べても革命の反動法の性格濃厚であり、ルイ14世時代の王令のほぼ焼き直しに過ぎないという悪評を伊藤が察知していたからだとする見方もある(鈴木正裕)。後述のようにルードルフは戸主制全廃論者。 同時代人による説明では、ほかにフランス人の適任がいなかったのみならず、仏法が古過ぎ、商法・訴訟法は最新の法律を模範にすべきとの趣旨からドイツ人に委託したとされる(志田鉀太郎、明治商法起草補助者)。 仏法派も引き続き重用され、岸本辰雄・長谷川喬らは報告委員として商法編纂に参加、磯部も民訴法の審議で重要な役割を果たした。
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明治十四年の政変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/24 16:20 UTC 版)
翌明治14年(1881年)に自由民権運動に歯止めをかけようとした伊藤博文らにより、いわゆる明治十四年の政変が起き、大隈重信が政府から追放された。この際に、大隈や福澤諭吉が藩閥政府に代わる内閣を組織しようとしていたとの疑惑から、福澤の影響が強い慶應義塾出身の官僚が多数官を辞することになった。この中には犬養毅、尾崎行雄などが含まれる。 しかし九鬼は、彼らと一線を画して文部省に残り、福澤の文明開化主義に反対する伝統主義的な教育政策の実施者となった。このため九鬼と福澤の関係は極度に緊張し、後に福澤の会合への招待状を誤って九鬼に送った事務担当者に対する注意の中で、『九鬼の存在は座上に犬ころがいるようなものだ』という過激な表現を福澤が用いている。なお、最終的には九鬼が福澤に謝罪する形で両者の間に和解が成された。
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