大隈の意見書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 22:10 UTC 版)
3月になると、未だ意見書を提出していなかった大隈に対し、左大臣有栖川宮熾仁親王から督促が行われた。大隈は有栖川宮に対し、他の参議・大臣に見せないことを条件に意見書を提出した。大隈の意見書は「早急に欽定憲法を制定し、2年後に国会を開く」「イギリス型の立憲政治を導入し、政党内閣を組織させる」など、あまりにも急進的なものであった。有栖川宮は意見書を三条と岩倉に見せており、岩倉は伊藤が大隈の意見書について知らないということを察知した。意見書の内容があまりにも過激であると考えた岩倉は、伊藤に知られる前に大隈と話そうという手紙を書いている。しかし大隈は伊藤と意見を交換しようとはしなかった。 7月、伊藤が大隈の意見書の内容を知り、激怒して出仕を行わなくなった。7月4日大隈は伊藤のもとに赴いて弁解した。伊藤は大隈が福沢の代弁をするようなことをするのはおかしいとし、またなぜ自分に話さなかったのかと詰め寄った。これに対して大隈は、意見書の内容は実効性のあるものではなく、自分の見込みを書いただけで福沢の意見ではないと弁解し、「繰り返し繰り返し謝るのみです」「よろしく思いやりの心で許してください」と謝罪した。伊藤は7月5日より再び出仕したが、意見書について再度大隈に確認し、岩倉に問題は十分に解決していないと伝えるなど、二人の間には亀裂が残った。この段階では三条や岩倉は伊藤と大隈の間を取り持とうとしていた。 大隈の意見書は政変後に金子堅太郎が佐々木高行に「福澤ニ綴ラセタリ」と福沢の筆によるものであると伝え、福沢自身もこれを認めたと語っている。慶應義塾で教えを受け、太政官の大書記官を努めていた矢野文雄は後年、「わが輩が書いたもののやうである」と回想している。
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