大隈内閣と第一次世界大戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:53 UTC 版)
「山縣有朋」の記事における「大隈内閣と第一次世界大戦」の解説
山縣が大隈内閣に期待したことは、勢力を拡大した「政友会退治」と二個師団増設であった。しかし加藤外相は元老を無視した行動を取ることが多く、8月の第一次世界大戦参戦については元老に相談する前に閣議決定を行い、山縣を激怒させている。山縣は、軍事専門家としての見地から対外協調の重要性を認識しており、第一次世界大戦勃発間もない頃には大隈首相らに「黄色人種に対して白色人種が同盟を組んで対抗してくるような事態を防ぐため、何か手段を講じることは非常に大切である」とした意見書を提出している。山縣は対抗する手段として日英同盟の他、日中関係や日露・日仏関係の改善を唱えている。大正4年(1915年)3月25日、大隈内閣は第12回衆議院議員総選挙で圧勝し、山縣の悲願であった政友会打倒と二個師団増設を達成した。5月の対華21ヶ条要求の際には加藤外相に報告を求め、「必ず英・米・露と意思の疎通を計って」行うよう求めたが、加藤外相はほとんど元老にも列強にも相談せずに要求内容を決定し、原案すら元老に示さないまま中華民国側に提示した。この加藤の行動を山縣は批判している。また山縣閥出身でありながら大隈首相に接近し、加藤外相の外交降路線に追随した岡市之助陸相に不快感をいだき、大島健一陸軍次官を引き立てて岡陸相の勢力を削いでいる。大隈首相は自らの後継を加藤高明と考えており、山縣は次の内閣を寺内正毅にしようと考えていた。両者の間で暗闘が続けられたが、結局9月30日の元老会議で単独の寺内内閣が成立する運びとなった。 しかし寺内は超然内閣を構想しており、立憲同志会の支持をとりつけようとする山縣と対立した。大正5年(1916年)12月、山縣が形式的に枢密院議長の辞意を天皇に奏上したが、病状が悪化していた大正天皇はこれを認めたうえに「いつ辞表を出すのか」と尋ねるまでになった。その後も大正天皇は同様の言動を繰り返し、大正6年(1917年)4月14日にはついに山縣は枢密院議長の辞表を提出したが、5月2日には寺内首相の取りなしで山縣には留任の勅語が下り、ようやく事態は収拾された。6月には椿山荘で80歳の祝賀会が盛大に催され、山縣はその時の様子を「しる人もまれになるまで老いぬるを 若きにまじるけふの楽しさ」と詠みあげている。 同年ロシア革命によりロシアにボリシェヴィキ政権が樹立されると、国内外からシベリア出兵が唱えられたが、これに対して山縣はアメリカの協調出兵提議をとりつけるまでは慎重論を崩さなかった。ウィルソン主義に対しては「アメリカも、帝国主義のもと併合を行ってきたではないか」と懐疑的ではあったものの、第一次世界大戦を通して大国となるであろうアメリカから疑念を持たれるような政策をとってはならないというのが山縣の持論であった。 このころまでに日本は著しい経済成長を遂げており、国内総生産は明治18年から大正9年(1920年)までに3倍に成長し、大戦景気に沸いた第一次世界大戦後には債務国から債権国へ、輸入超過国から輸出超過国へと転換した。さらに戦勝国として南洋諸島のドイツ権益を引き継ぐなど日本の国際的地位も上昇した。
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