大隈家入り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/20 10:26 UTC 版)
帰国後に大隈重信の長女・熊子と結婚し、大隈家の養嗣子となる。内務省地理局(現・気象庁)や外務省に勤務したが、明治十四年の政変により、養父の重信と共に下野する。翌1882年(明治15年)の東京専門学校開校にあたって初代校長に就任し、10月21日の開校式においては「開校の詞」を朗読、校長として「学の独立」を謳う開校宣言を行った。 なお、重信は当初、英麿が留学時代に得た学識を活用して、理科系の学校を興そうと考えていたが、同志との協議の結果、政治経済や法律を教授する学校の設立に方針転換したという。その上理学科は入学者が少なく、設置後数年で廃されている(現在の早稲田大学理工学術院の直接の源流は、1908年(明治41年)に置かれた理工科とされている)。 校長辞任後は、第二高等中学校、高等商業学校にて教鞭を執るも、再び東京専門学校の講師に復帰する。1896年(明治29年)には早稲田尋常中学校を重信らと共に設立、初代校長に就任する。1901年(明治34年)に設立された早稲田実業中学の初代校長をも兼任する。当時生徒であった権田保之助は「極めて温厚な紳士であった」と評している。 他方、1898年(明治31年)には第5回・第6回衆議院議員総選挙に郷里の岩手県から立候補し、進歩党所属で当選、1902年(明治35年)の第7回総選挙でも憲政本党に属して当選し、一時は教育者と政治家の二束の草鞋を履いていた。
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