大隈内閣と元老
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1914年(大正3年)4月、シーメンス事件で山本内閣が倒れると、元老たちは再び会議を行った。西園寺も召集されたが、「違勅」を口実として出席しなかった。しかし奏薦した徳川家達に辞退され、清浦奎吾の組閣も失敗したことで、7回も会議を行うこととなった。山縣は最終的に大隈重信を首相とするよう提案し、ようやく第2次大隈内閣が成立する運びとなった。8月には大隈内閣が第一次世界大戦への参戦を決めた。山縣は重大案件の決定自体に元老が加えられなかったことに憤慨したものの、元老会議もこれに同意を与えた。このころになると山縣以外の元老は老いて十分な影響力を発揮できず、山縣自身の影響力も低下しつつあった。大隈と加藤高明外相・立憲同志会総理も元老の影響力を排除しようと考えており、対華21カ条要求の交渉過程でも山縣に報告を行わなかった。しかし21カ条要求の外交的失敗が明らかになると、マスメディアの批判は元老会議にも向いた。1915年には井上が死去したことで、山縣の孤独は強まった。1916年(大正5年)、山縣は大隈を元老に加える構想を持ったが、大隈は加藤に政権を譲るつもりでいた。寺内正毅を構想していた山縣と大隈の会談の結果、大隈は加藤と寺内を後任とするよう奏上した。 一方で西園寺は1914年(大正3年)6月、政友会総裁原敬に、「将来は西園寺が元老となり宮中を担当し、原が表の政治を担当する」ことを話し合い、新たな元老としての活動を行うつもりでいた。西園寺は山縣の嫌う加藤にも批判的であり、孤独を深めていた山縣にとって好ましい存在であった。西園寺は寺内が適当であると大正天皇に奏上するほか、8月3日の非公式元老会議にも参加した。9月26日、大隈は再度参内し、辞意を伝えるとともに、加藤を推薦する一方で、大山巌内大臣に、元老会議を開かずに首相を決定してほしいと要請した。大山は拒否し、山縣も「大隈には1年半も欺かれた」と憤慨した。大隈は世論を背景にこの要求を通そうとしたが、大山内大臣・波多野敬直宮内大臣をはじめとする宮中は元老会議の開催を支持していた。10月4日、大隈が加藤を推薦することを明記した辞表を提出すると、山縣は大正天皇に拝謁し、元老会議開催の同意と、西園寺を会議に加えることの許可を得た。山縣・松方・大山・西園寺による元老会議は全員一致で寺内を押し、寺内内閣がスタートした。伊藤之雄は西園寺が正式に元老として認められたのはこの時期であるとしている。首相辞任後の大隈は「首相待遇」を受けるという勅語を受け、「体を休め、天皇の意に添うようにしてほしい」という御沙汰書が下された。この御沙汰書は、波多野宮内大臣が「元老の待遇を受けたものと信ずる」としたように、一部には元老扱いしたものであると受け止められた。このころから元老の根拠が特定の詔勅によるものであるという認識が広まった。 山縣はなおも大隈を元老に加え、元老会議の正当性と実権を高めるつもりであったが、西園寺、松方、大山、寺内首相も反対していた。大隈はシベリア出兵に関する非公式元老会議には参加したものの、その後は元老制度が非立憲的であると非難し、参加しなかった。しかし彼の人気は高く、憲政会系の報知新聞などでは「陛下の元老」などと扱うこともあった。
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