大隈主導の幣制改革
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上記の矛盾を解決するため、明治2年2月5日(1869年3月17日)、外国官判事兼会計御用掛大隈重信の建白により、造幣局が設立されることとなった。三岡失脚後は大隈が幣制改革を主導することになる。大隈は同年3月4日輔相三条実美に対し、通貨単位を両から円に改めること、10進法を基本とすること、硬貨を方形ではなく円形とすることなどを建白し、了承された。しかし、実際に新通貨「円」が施行されるまでは、この後2年の歳月を要することになる。明治2年11月4日(1869年12月6日)に発生した新貨幣生産を担うべき造幣局予定地の火災による設備の焼失や、市場に流通する偽金・不換紙幣の整理に時間を割かれたためである。 会計官副知事となった大隈は、とりあえず太政官札と準備中の新貨幣との交換を約束するとの布告を出して強制的に太政官札を通用させる一方、正金との引き替えを禁じる。しかし、太政官札価値の下落はなおも続き、明治2年6月には正金100両に対し185両にまで低下した。さらに大蔵大輔(のち民部大輔・参議を兼任)となった大隈は、外国から苦情が殺到していた贋造の旧二分金(1両の半分)の回収を急いだ。同年11月には、それまで高い額面しか無かった太政官札に加え、便宜のため小額紙幣(2分、1分、2朱、1朱)を「民部省札」として発行、流通させた。太政官札はこれらの努力により、明治3年(1869年)には、ほぼ正金と同価値にまで信用を回復する。 しかし今度は偽太政官札が流通し始めており、偽造が不可能なほど精細な紙幣の発行が急がれた。大隈は北ドイツ連邦の会社に印刷を依頼し、明治通宝(新紙幣、ゲルマン札)の発行を開始した。 明治3年11月27日(1871年1月17日)には大阪に設置された造幣寮が稼働開始、明治4年2月15日(1871年4月4日)には創業式を挙行した。最新式の鋳造機を香港から購入し、贋造が難しい近代的な貨幣鋳造が開始された。本位貨幣として金貨5種(20円、10円、5円、2円、1円)、銀貨1種(1円)、補助貨幣として、銀貨4種(50銭、20銭、10銭、5銭)、銅貨4種(2銭、1銭、半銭、1厘)が発行された。明治4年12月より、旧貨幣(万延二分判・一分銀・寛永通寳・天保通寳など)と新銭貨との交換が行われている。 紙幣に関しては、明治通宝が額面9種(100円、50円、10円、5円、2円、1円、半円、20銭、10銭)をもって発行された(のちに旧藩札や太政官札と交換されることになる)。
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