大隈主導の幣制改革とは? わかりやすく解説

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大隈主導の幣制改革

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 16:49 UTC 版)

新貨条例」の記事における「大隈主導の幣制改革」の解説

上記矛盾解決するため、明治2年2月5日1869年3月17日)、外国官判事会計御用大隈重信建白により、造幣局設立されることとなった三岡失脚後大隈幣制改革主導することになる。大隈同年3月4日輔相三条実美対し通貨単位を両から円に改めること、10進法基本とすること、硬貨方形ではなく円形とすることなどを建白し了承された。しかし、実際に新通貨「円」が施行されるまでは、この後2年歳月要することになる。明治2年11月4日1869年12月6日)に発生した貨幣生産を担うべき造幣局予定地の火災による設備焼失や、市場流通する偽金不換紙幣整理時間割かれたためである。 会計官副知事となった大隈は、とりあえ太政官札準備中の新貨幣との交換約束するとの布告出して強制的に太政官札通用させる一方正金との引き替え禁じる。しかし、太政官札価値の下落はなおも続き明治2年6月には正金100両に対し185両にまで低下した。さらに大蔵大輔(のち民部大輔参議兼任となった大隈は、外国から苦情殺到していた贋造の旧二分金(1両の半分)の回収急いだ同年11月には、それまで高い額面しか無かった太政官札加え便宜のため小額紙幣(2分、1分、2、1)を「民部省札」として発行流通させた。太政官札はこれらの努力により、明治3年1869年)には、ほぼ正金同価値にまで信用回復する。 しかし今度は偽太政官札流通し始めており、偽造不可能なほど精細な紙幣の発行急がれた。大隈北ドイツ連邦会社印刷依頼し明治通宝新紙幣ゲルマン札)の発行開始した明治3年11月27日1871年1月17日)には大阪設置され造幣寮稼働開始明治4年2月15日1871年4月4日)には創業式を挙行した。最新式鋳造機を香港から購入し贋造難し近代的な貨幣鋳造開始された。本位貨幣として金貨5種(20円、10円5円、2円、1円)、銀貨1種1円)、補助貨幣として、銀貨4種50銭、20銭、10銭、5銭)、銅貨4種(2銭、1銭、半銭、1厘)が発行された。明治4年12月より、旧貨幣万延二分判一分銀寛永通寳天保通寳など)と新銭貨との交換が行われている。 紙幣に関しては、明治通宝額面9種(100円50円10円5円、2円、1円半円20銭、10銭)をもって発行された(のちに旧藩太政官札交換されることになる)。

※この「大隈主導の幣制改革」の解説は、「新貨条例」の解説の一部です。
「大隈主導の幣制改革」を含む「新貨条例」の記事については、「新貨条例」の概要を参照ください。

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