万延二分判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/03 16:43 UTC 版)
万延二分判(まんえんにぶばん)は万延元年4月9日(1860年5月29日)より鋳造開始され翌日4月10日(5月30日)より通用開始された。2枚の量目では同時に発行された万延小判を上回るが、含有金量では劣る名目貨幣で一両あたりの含有金量では江戸時代を通じて最低のものであった。発行高は万延小判をはるかに凌ぎ、金貨流通の主導権を握り、グレシャムの法則の作動により小判の流通は絶え、従来小判一両に対する商品価格が建てられていたものを有合建と称して二分判を基準として価格を設定せざるを得なくなった。勘定奉行の小栗忠順は幕府が慶應元年(1865年)に横須賀製鉄所の建設を計画した際、その建設費をこの二分判による改鋳利益で賄おうと企てたため、小栗二分金(おぐりにぶきん)とも呼ばれた。 払い出しは上方や東海道に対して重点的に行われ、全国的には行き渡っていなかったとされる。 通用停止は古金銀停止の明治7年9月末(1874年)であった。
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