万延元年から文久2年まで
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「風雲秘密探偵録」の記事における「万延元年から文久2年まで」の解説
久保田藩当局のもとに平田情報が再び寄せられるのは桜田門外の変の直後の万延元年(1860年)3月のことであった。幕政の中枢にあった井伊が白昼公然と江戸城桜田門外で殺害されたことで幕府権力の動揺が現出し、藩当局は再び先のみえない状況に陥ったのである。 文久元年(1861年)5月28日、有賀半弥ら水戸の浪士14名が江戸高輪の英国公使館東禅寺を襲撃した第一次東禅寺事件の平田銕胤の報告は正確にして詳細をきわめ、久保田藩としてもその情報に深く依拠せざるをえなくなった。その情報源は東禅寺檀家、東海道品川宿の名主、幕府目付、下座見、幕府外国奉行、治療にかけつけた医師、近隣の人びと、当日東禅寺詰の旗本、外国方などにまでおよんでおり、一藩の当局者がこれほどの情報網を江戸市中に張り巡らすことは事実上不可能であった。 7月に入ると、ロシア軍艦対馬占領事件に関連して外国奉行の小栗忠順が辞任した内部事情やイギリス艦隊による海岸測量の意図に関する考察、水戸徳川家と幕閣との不仲などが報告されている。 11月には、皇女和宮の江戸への降嫁行列をめぐる情報が提出されている。そこでは行列供奉の小禄の公家がおびただしい数の奉公人を雇い入れており、そのなかには品位に欠ける者も多く混じっていて、通過するそれぞれの宿駅でおおいに迷惑をこうむっていることが指摘されている。このとき、平田国学の伊那谷における中心人物である飯田の岩崎長世は銕胤に対し詳細な書状を送っており、幕府によって降嫁行列の荷物運搬にかり出された北越の助郷人足が、3日間も食事を与えられないどころか、逃亡者が竹で打ちすえられたり、鉄砲で撃たれたりするなど言葉にできないほど酷い仕打ちを受けたことを伝えているが、銕胤は長世の書翰をそのまま本書に収載している。 文久2年(1862年)に入って、老中安藤信正暗殺計画にからんで、1月12日の宇都宮藩儒者大橋訥庵の捕縛、同月15日の坂下門外の変、襲撃された安藤信正の負傷の程度、斬奸状の適否、変にかかわった人びとの動向など一連の事象について、一部人を使って探りを入れたうえで詳細に報告している。 4月、薩摩藩の実力者島津久光の挙兵上洛によって京都情勢が激変し、久光上洛にかかわる種々の風聞や寺田屋騒動情報が報告されている。また、5月には勅使として大原重徳が薩摩藩兵に護衛されて江戸に下向することが決まった。久保田藩主佐竹義就(この年、義堯に改名)は、幕府への忠誠を貫こうとする立場から江戸に参府したものの、事態の急変は彼を不安にさせ、江戸家老宇都宮典綱の進言にもとづいて5月18日、銕胤嫡男平田延胤を京都に派遣して隠密探索を命じた。延胤は、門弟の角田忠行を同行させて約1ヶ月の京状探索をおこない6月24日に江戸に戻るが、その際、岩倉具視の久保田藩国事斡旋要請書翰をもたらし、当局者たちを悩ませている。一方、江戸に下った大原重徳は、6月末、使者を銕胤の許に送り、先代平田篤胤の全著作を朝廷の学習院に献納する旨要請して銕胤をおおいに感激させている。重徳は久保田藩からの献上も示唆したが、諸般の事情も勘案してその儀は遠慮し、大急ぎで準備できた分を銕胤が重徳の許に直接持参するかたちとなった。 文久2年の後半は、朝廷内での強硬派の形成や勅使三条実美の江戸下向、諸大名への内勅降下などの諸情報、銕胤門人で白川伯王家関東執役の古川将作によって10月に提出された神祇官再興建白書の写しが藩当局に報告された。
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