万延小判の発行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/10 14:45 UTC 版)
小判流出防止のためには金銀比価の是正が必要であったが、定位銀貨の増量は銀の産出が衰退した状況では叶わず、一方、金貨の大幅な量目低下は著しい物価高騰を招き、幕府がこれまで金銀の吹替えにより得て来た出目を帳消しにするものである上に混乱に陥ることが予想されていたため、水野忠徳も金貨の量目引き下げには消極的であった。しかしオールコックはこのような状況では貿易に支障が出るとして金銀比価の是正を求めた。 また、外国人領事らの激しい抗議により、短期間での安政小判および二朱銀の鋳造停止に終わった、安政の吹替えであったが、小判の海外流出は僅かな期間に多額に上ったため、ハリスは「1:銀貨の量目を増大させ金銀比価を是正する」、「2:小判の量目を低下させて同様に金銀比価を是正する」、の2案を提案してきた。1の案はまさに安政の幣制そのものであったが、幕府にもはや「今更何を」と抗議する力はなかった。さらに金地金の保有高の事情から2の案を採らざるを得なかった。そこで天保小判に対し、品位はそのままで量目を3割以下と大幅に低下させる吹替えを行った。含有金量は慶長小判の約8.1分の一となった。 これにより新小判に対する安政一分銀一両の金銀比価は、ほぼ国際水準である15.8:1となった。新小判の発行に先立ち、1860年2月11日(万延元年1月20日)に、2月22日(2月1日)より既存の小判は含有金量に応じて増歩通用とする触書が出され、天保小判一枚は三両一分二朱、安政小判一枚は二両二分三朱通用となった。このため江戸では三倍もの額面の新小判に交換される旧貨幣を所持する者が群衆となって両替商へ殺到し大混乱に陥る騒ぎとなった。 これは激しいインフレーションを意味し、物価は乱高下しながらも、激しい上昇に見舞われた。また新小判でさえ鋳造量は少数にとどまり、実際に通貨の主導権を制したのは、さらに一両当りの含有金量が低く、鋳造量が圧倒的に多い万延二分判であった。一両当りの含有金量としては慶長小判の約11.4分の一に低下したことになる。このため幕末期の商品価格表示は流通の少ない小判の代わりに有合せの二分判および二朱判などを直立てとする「有合建(ありあいだて)」が行われるに至った。 その後英国総領事のオールコックは著書『大君の都』の中で日本の本位貨幣である天保小判が金貨4ドル分の金を含有し、一分銀には素材価値以上の価値が設定されていたことにより金貨流出につながったことを認めているが、それは小判の大量流出が起こった後のことであった。
※この「万延小判の発行」の解説は、「幕末の通貨問題」の解説の一部です。
「万延小判の発行」を含む「幕末の通貨問題」の記事については、「幕末の通貨問題」の概要を参照ください。
- 万延小判の発行のページへのリンク