小判の量目
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 04:17 UTC 版)
額面は金一両。これは本来、質量単位としての一両の目方の砂金と言う意味であったが、鎌倉時代には金一両は五匁、銀一両は4.3匁と変化し、文明16年(1484年)、室町幕府により京目(きょうめ)金一両は4.5匁(約16.8グラム)と公定され、それ以外のものは田舎目(いなかめ)とされた。安土桃山時代には四進法の通貨単位の便宜を図るためか、京目金一両は四匁四分と変化し、田舎目金一両は四匁前後となった。 慶長小判はこの京目一両の原則に沿っていたが、実際の慶長小判の量目は品位52.2匁位であるから金44匁に銀8.2匁を足して52.2匁となり、金座の鋳造手数料4.4匁を差引くと47.8匁となり吹き減り0.2匁を差引けば10両分の量目が47.6匁になるとされた。あるいは大判が44匁2分でありこれが8両2分(当時)で取引されているから44匁2分を8.5で割ると10両あたり52匁となるので品位52匁位とし、大判の重さの1割の鋳造手数料4匁2分2厘を差引くと47匁5分8厘となる。これに大判の入目2分に順じ2分を足せば10両の量目は47匁6分となるとする説もある。このように名目上の一両の金平価は金4.4匁(16.4g)であるが、慶長小判でさえ実際の含有金量は4.0匁強と、金平価をやや下回っている。 一両は日常生活では大変高額なものであり、例えば慶長小判一両であれば米3~4石を入手する購買力を持っており、財布に入れて使用するような性質のものではなく庶民には縁遠い存在であった。 また、小判も丁銀と同様に包封して百両包、五十両包あるいは二十五両包など包金として高額取引や献上・贈答用として用いられ、流通過程でも敢えて開封されることは殆ど無かった。特に金座の後藤包が権威あるものとして両替商らが為替金などを幕府に納入する際は後藤包であることが要求された。包封せず裸のまま献上・贈答用として使用できたのは大判のみであった。
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