安政二朱銀とは? わかりやすく解説

安政二朱銀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/28 03:11 UTC 版)

二朱銀」の記事における「安政二朱銀」の解説

安政二朱銀(あんせいにしゅぎん)は日米和親条約による安政6年6月2日1859年)の横浜港開港備えて同年5月25日より小判海外流出防止目的貿易取引専用鋳造され計数銀貨であり、貿易二朱ぼうえきにしゅ)とも呼ばれる。また大きいばかりで、より小型一分銀半分額面価値でしか通用しなかったことからバカ二朱(ばかにしゅ)とも呼ばれる。またこの名称は本来の発行目的を果たすことができなかったからであるともいわれる嘉永6年1853年)、浦賀沖の黒船来航により幕府開港迫られ安政元年5月17日1854年)より、下田了仙寺にて日本貨幣西洋貨幣との交換比率交渉が行われた。米国側は金貨、銀貨それぞれ同一質量をもって交換すべきあると主張した一方幕府側の主張以下の通りであった。 8.8匁の量目20ドル金貨は1匁当り19匁すなわち1枚あたり、銀167.2匁と評価され1ドル当たりでは銀8.36匁である。 また1ドル銀貨すなわち外国銀貨地金見做されるため純銀量6匁2分(23.2グラム)に対し二六双替である通用銀(天保丁銀16匁と評価される。これは1両の約1/4であるから1ドル=1分である。また一分銀名目貨幣であり、金貨4ドル分の金を含有する本位貨幣である小判兌換券相当するものである。 これらのうち不当に低く評価され金貨問題外とされ、論争焦点銀貨へと絞られた。しかしこの時点では交渉はまとまらなかった。 安政3年9月9日1856年)に下田御用所において米国総領事ハリスとの協議が行われ、ハリス市中流通している天保一分銀は2.3匁(8.62グラム)であり、1ドル銀貨は26.73グラムであるから100ドル一分銀311相当する。従って1ドル銀貨の約1/3の量目質量)である一分銀3枚持って1ドル換えるべきであると主張した結局実質価値満たない名目貨幣としての銀貨国際的に通用しないハリス押し切られ同種同量交換1ドル=3分の交換比率承諾することになる。また中国との交易精通していたハリス日本一両中国同様に一両テール/37.3グラム)と考え1ドル銀貨は約3/4テール量目相当し一分銀量目偶然にも約1/4テールであったことも1ドル=3分の根拠としての口実となった。 そこで幕府は、安政6年6月1日1859年)より、天保小判量目4/5倍に低下させた安政小判と、量目がほぼ1ドル銀貨半分である安政二朱銀を発行し、これにより1ドル一分誘導し、かつ金銀比価国際水準対しやや金高設定された17.2:1に是正しよう試みた一方二朱銀については一分銀半分額面にもかかわらず、約4/3倍の含有銀量であり、出目獲得目的とした悪貨発行慣れた幕府にとって良貨多量に発行できるものでなかったため、貿易取引限定するものとした。またこの二朱銀鋳造するために必要な銀を賄うために、銀品位下げた安政丁銀発行することになったとされる。しかし安政丁銀発行は安政二朱銀の鋳造停止後半経過した安政6年12月27日グレゴリオ暦1860年1月19日であった開港場では6月2日より1ドル銀貨との引き換え始まったが、この二朱銀開港場のみでしか通用せず、もともと日本国内全般に含有銀量の多い二朱銀流通させることが困難であり、一般に流通しているのは依然一分銀であったため、国内では一分銀両替しない通用しない定められ大凡貨幣としての機能を欠くものであった交換され貨幣日本国内において一般に流通するものではなく、かつ1ドル銀貨日本国内での購買力を1/3に低下させるというこの政策ハリスおよびオールコック外国人大使条約違反であると強く抗議し6月22日幕府手落ち認め以後1ドル銀貨一分銀3枚引き換えるよう開港場奉行申し渡し23日通用停止された。したがって安政二朱銀の通用は僅か22日間で終わり安政小判についても4ヶ月足らず鋳造停止となるに至ったこのため外国人大使1ドル銀貨をまず一分銀3枚交換し両替商持ち込んで4小判両替して国外持ち出し地金として売却すれば莫大な利益得られるというものであった。 しかし、グレシャムの法則働き良貨である小判鋳造量衰退し市場では悪貨である二朱判および一分銀のような名目貨幣凌駕するような状態であったため、一分銀から小判への両替には大幅な増歩が要求された。また外国人1ドル銀貨から一分銀への両替要求多額上ったため、開港場では一分銀瞬く間払底した。それでも小判流出短期間の間に多額上り国内深刻な金貨の不足を起こすような危機には違いなかった。外国人大使らは一年間このような両替5 - 6サイクル繰り返し利益上げることが可能であったという。 一分銀払底打開策として7月29日に、ハリスメキシコ銀および1ドル銀貨一分銀改鋳することを提案した。これを受け入れ8月13日より発行されたのが銀品位洋銀同一安政一分銀であった。しかし全く小判流出防止効果を果たすものではなく、むしろ流出促進させたものといえる。 安政一分銀発行によっても貿易港周辺市中における一分銀払底解消されず、ハリス幕府対し一分銀早急な増鋳を要求したが、発行思うよう進捗せず、洋銀刻印打って三分として通用させるよう要求した。ここで登場したのが、メキシコ8レアル銀貨などに「改三分定」と刻印を打印した改三分定銀であった。しかし日本国内ではこの改三分定銀は2分2にしか通用せず、刻印打は安政6年12月29日グレゴリオ暦1860年1月21日)より開始されたが翌年万延元年5月12日1860年)までの短期間中断された。 その後英国総領事オールコック著書大君の都』の中で日本本位貨幣である天保小判金貨4ドル分の金を含有し一分銀には素材価値上の価値設定されていたことにより金流出つながったことを認めているが、それは小判大量流出起こった後のことであった

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