安政の改革、晩年
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こうして正弘は積極的な政策を見出せないまま、事態を穏便にまとめる形で、嘉永7年1月16日(1854年2月13日)、ペリーの再来により同年3月3日(3月31日)、日米和親条約を締結させることになり、約200年間続いた鎖国政策は終わりを告げる。しかし、条約締結に反対した徳川斉昭は、締結後に海防掛参与を辞任することになる。 安政2年(1855年)、攘夷派である徳川斉昭の圧力により開国派の松平乗全、松平忠優を8月4日(9月14日)に老中より罷免したことが、開国派であった井伊直弼らの怒りを買い(ただし、その原因を正弘の人事・政策に対する親藩・譜代大名の反発と見る考えもある)、孤立を恐れた正弘は10月9日、開国派の堀田正睦を老中に起用して老中首座を譲り、両派の融和を図ることを余儀なくされた。 こうした中、正弘は江川英龍、勝海舟、大久保忠寛、永井尚志、高島秋帆らを登用して海防の強化に努め、講武所や長崎海軍伝習所、洋学所などを創設した。後に講武所は日本陸軍、長崎海軍伝習所は日本海軍、洋学所は東京大学の前身となる。また、西洋砲術の推進、大船建造の禁の緩和など幕政改革(安政の改革)に取り組んだ。 安政4年6月17日(1857年8月6日)、老中在任のまま江戸で急死した。享年39。跡を甥(兄・正寧の子)で養子の正教が継いだ。 なお、正弘は将軍継嗣問題(家定の後継者問題)では一橋慶喜を推していた。
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