安政の改革、晩年とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 安政の改革、晩年の意味・解説 

安政の改革、晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 17:20 UTC 版)

阿部正弘」の記事における「安政の改革、晩年」の解説

こうして正弘積極的な政策見出せないまま、事態穏便にまとめる形で、嘉永7年1月16日1854年2月13日)、ペリー再来により同年3月3日3月31日)、日米和親条約締結させることになり、約200年続いた鎖国政策終わりを告げる。しかし、条約締結反対した徳川斉昭は、締結後海防掛参与辞任することになる。 安政2年1855年)、攘夷派である徳川斉昭圧力により開国派の松平乗全松平忠優8月4日9月14日)に老中より罷免したことが開国であった井伊直弼らの怒りを買い(ただし、その原因正弘人事・政策対す親藩譜代大名反発と見る考えもある)、孤立恐れた正弘10月9日開国派の堀田正睦老中起用して老中首座譲り、両派の融和を図ることを余儀なくされた。 こうした中、正弘江川英龍勝海舟大久保忠寛永井尚志高島秋帆らを登用して海防強化努め講武所長崎海軍伝習所洋学所などを創設した。後に講武所日本陸軍長崎海軍伝習所日本海軍洋学所東京大学前身となる。また、西洋砲術推進大船建造の禁緩和など幕政改革安政の改革)に取り組んだ安政4年6月17日1857年8月6日)、老中在任のまま江戸で急死した享年39。跡を甥(兄・正寧の子)で養子正教継いだ。 なお、正弘将軍継嗣問題家定後継者問題)では一橋慶喜推していた。

※この「安政の改革、晩年」の解説は、「阿部正弘」の解説の一部です。
「安政の改革、晩年」を含む「阿部正弘」の記事については、「阿部正弘」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「安政の改革、晩年」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「安政の改革、晩年」の関連用語

安政の改革、晩年のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



安政の改革、晩年のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの阿部正弘 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS