安政2年から安政の大獄まで
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「風雲秘密探偵録」の記事における「安政2年から安政の大獄まで」の解説
本書における年代的に最も古い報告は、安政2年(1855年)後半の江戸幕府に対してなされた、黒船来航後の海防献策に関するものである。この時期から久保田藩江戸藩邸は気吹舎を中心とする平田銕胤とその人脈を利用し始めたと考えられる。銕胤が確認しえた海防献策は100余りとされるが、そのなかで彼自身が最も重要として評価したのは、嘉永6年(1853年)7月の信濃国岩村田藩の藩主嫡男内藤正義の献策、および同年同月の幕臣勝海舟の献策であった。内藤は具足の無用性を主張するとともに、西洋式鉄砲の採用と精製火薬の製造を主張し、勝は洋式軍制の採用と軍事学校の建設、都府防衛を強化したうえでの海軍創設、海軍建設資金調達のための対清国・朝鮮・ロシア貿易の振興などの構想を示した。 安政5年(1858年)の新条約(日米修好通商条約)勅許問題から同年後半より始まった安政の大獄にかけての時期には、大獄開始を告げる銕胤の京都書翰が絶え間なく収載されており、そこでは、捕縛された人びとに対し、一貫して同情的に筆録されている。しかし、大老井伊直弼ら幕閣の権力は万全とみられたところから平田情報の価値はむしろ減じ、藩当局にとって大獄における苛烈な政治弾圧は強い畏怖を引き起こしたところから、いったん報告は中断する。
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