安政 – 文久
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運河の計画としては安政4年(1857年)のものも知られている。これは遅くとも『京都御備之御趣意』が京都町奉行に出願された嘉永7年2月17日(1854年3月15日)には検討が開始されていたものとされ、この時点ですでに海津・大浦・塩津の3か村から、北国からの荷物の通線路がいずれになっても不服がない旨の同意が取り付けられていた。この『御趣意』の出願者(敦賀町人数名)・同意者(問屋仲間ら)・出資者(京都の町人で小浜藩御用達の小林金三郎・京都の糸割符村瀬孫祐)らは、小浜藩と関係が深かったものの、藩は表舞台には出ていない。これに対して彦根藩は、彦根城の要害への支障・米の価格低下・宿場の衰退といった損害を自藩が被り、柳ケ瀬関(彦根藩所管)・剣熊関(郡山藩所管)の趣意にも関わるとし、反対を唱えた。京都町奉行や小浜藩関係者の現地検分を経て、安政3年12月13日(1857年1月8日)には京都所司代が京都町奉行に対して「掘割一條」の許可を出したが、これは敦賀 – 琵琶湖間の運河計画ではなく、敦賀 – 疋田間の船川整備(船川と船溜まりは文化期のものを再利用)と深坂越の道整備の計画であった。彦根藩は計画の中止・延期を求めて様々な運動を進めたが、越前側では小浜藩が安政4年2月(1857年)以降順次船川普請(敦賀・鵜原・下道口)・道普請(追分 – 深坂峠)を実施し、近江側でも3月から深坂峠の道普請が、5月からは大浦の船川普請が行われ、敦賀 – 疋田間および山門 – 大浦間は水路、疋田 – 山門間ないし疋田 – 塩津間は陸路を用いる経路が整備された。この内新たに開削されたのは、山門村字茶屋 – 大浦村出郷字稲田の区間である。七里街道に通じる海津ではなく大浦が選ばれたのは、川船の通行に適していると判断されたためと考えられる。敦賀 – 疋田間の船川は曳舟の人夫を多く必要とするため陸路に対する優位性が低く、文久年間の深坂越開削計画に関する報告の時点で、すでに通船は中止となっていた。
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