安政 – 文久とは? わかりやすく解説

安政 – 文久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 01:32 UTC 版)

琵琶湖運河」の記事における「安政 – 文久」の解説

運河計画としては安政4年1857年)のものも知られている。これは遅くとも京都御備之御趣意』が京都町奉行出願され嘉永7年2月17日1854年3月15日)には検討開始されいたものとされ、この時点ですでに海津大浦塩津の3かから、北国からの荷物の通線路がいずれになって不服がない旨の同意取り付けられていた。この『御趣意』の出願者(敦賀町人数名)・同意者(問屋仲間ら)・出資者京都町人小浜藩御用達小林金三郎・京都糸割符村瀬孫祐)らは、小浜藩と関係が深かったものの、藩は表舞台には出ていない。これに対して彦根藩は、彦根城要害への支障・米の価格低下宿場衰退といった損害を自藩が被り柳ケ瀬関(彦根藩所管)・剣熊関(郡山藩所管)の趣意にも関わるとし、反対唱えた京都町奉行小浜藩関係者現地検分経て安政3年12月13日1857年1月8日)には京都所司代京都町奉行に対して掘割一條」の許可出したが、これは敦賀琵琶湖間の運河計画ではなく敦賀疋田間の船川整備船川船溜まり文化期のものを再利用)と深坂越の道整備計画であった彦根藩計画の中止延期求めて様々な運動進めたが、越前側では小浜藩安政4年2月1857年以降順次船川普請敦賀鵜原下道口)・道普請追分深坂峠)を実施し近江側でも3月から深坂峠道普請が、5月からは大浦船川普請が行われ、敦賀疋田間および山門大浦間は水路疋田山門間ないし疋田塩津間は陸路用い経路整備された。この内新たに開削されたのは、山門村茶屋大浦村出郷稲田区間である。七里街道通じ海津ではなく大浦選ばれたのは、川船通行適していると判断されたためと考えられる敦賀疋田間の船川曳舟人夫多く必要とするため陸路対す優位性低く文久年間深坂越開削計画に関する報告時点で、すでに通船中止となっていた。

※この「安政 – 文久」の解説は、「琵琶湖運河」の解説の一部です。
「安政 – 文久」を含む「琵琶湖運河」の記事については、「琵琶湖運河」の概要を参照ください。

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