深坂越
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/18 05:47 UTC 版)
深坂越(ふかさかごえ)は、近江国塩津と越前国敦賀との間を結ぶ古道[1]。塩津山越え・塩津道とも呼ばれ[2][3][4]、深坂越ないし新道野越を経由して塩津と敦賀を結ぶ経路は塩津街道(五里半越)と呼ばれる。古代から用いられた道路であるが、新道野越が整備された近世以降は重要性は薄れた。
注釈
- ^ 村井勇、金子史朗「6.琵琶湖周辺の活断層系」は深坂越について「小地塊山地上にできたtectoic saddle」とする[6]。tectoic saddleは「構造的鞍部」などと訳される[7]。
- ^ 徳久ら編 (2011, p. 892) によると360メートル、滋賀県歴史散歩編集委員会編 (2008, pp. 189f.) および長浜市北部振興局農林課編 (2017) によると370メートル。
- ^ 家恋ふらしも:「家人が私のことを恋しく想っているのであろう」の意[13]。
- ^ 同時に疋田 – 敦賀間および山門 – 大浦間の水路の整備とともに陸路の整備も行われたが、これは間の陸路として七里半越を利用する経路であった[37]。
- ^ 孫助・孫介などとも[38]。
出典
- ^ a b c d e f “深坂古道コースマップ”. 長浜市 (2023年12月15日). 2023年12月18日閲覧。
- ^ a b c 敦賀観光協会 n.d.
- ^ a b c KADOKAWA n.d.
- ^ a b c d 長浜市北部振興局農林課編 2017.
- ^ 徳久ら編 2011, p. 892.
- ^ a b 村井勇、金子史朗「6.琵琶湖周辺の活断層系」『地震研究所彙報』第50巻、東京大学地震研究所、1975年、100頁、doi:10.15083/0000033253。
- ^ 村井勇、金子史朗「1974年伊豆半島沖地震の地震断層、とくに活断層および小構造との関係」『地震研究所研究速報』第14号、東京大学地震研究所、1974年、176頁、doi:10.15083/00032039。
- ^ a b 中島 1994.
- ^ 藤井 2003, p. 34.
- ^ 山本 2007, p. 123.
- ^ 竹林 1999, pp. 54f.
- ^ a b c d 滋賀県歴史散歩編集委員会編 2008, pp. 189f.
- ^ a b c 滋賀県文化財保護協会 2011.
- ^ 長浜市 n.d.
- ^ 国立公園利用推進室 n.d.
- ^ 日外アソシエーツ n.d.
- ^ a b 山本 2007, p. 127.
- ^ a b 林 2019.
- ^ a b ブリタニカ・ジャパン 2014.
- ^ a b 藤井 2003, p. 35.
- ^ a b 竹林 1999, p. 55.
- ^ 竹林 1999, p. 54.
- ^ a b c 真柄 1993.
- ^ 小泉 1994.
- ^ 用田2011.
- ^ a b 杉江 2007a, p. 75.
- ^ 高橋 1994.
- ^ 杉江 2007b, p. 66.
- ^ 辻川 2008.
- ^ 用田 2011, p. 164.
- ^ びわこビジターズビューロー 2021.
- ^ 山本 2007, p. 124.
- ^ 杉江 2007b, p. 81.
- ^ 杉江 2007b, pp. 66f.
- ^ 杉江 2007b, pp. 66–69.
- ^ 杉江 2007b, p. 71.
- ^ a b 杉江 2007b, pp. 77f.
- ^ 杉江 2007b, p. 76.
- ^ 杉江 2007b, pp. 76 & 79.
- ^ 鈴木 2013, p. 1.
- ^ 杉江 2007b, p. 79.
- ^ 杉江 2007b, p. 80.
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