恵美押勝の乱と愛発関
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/10 03:44 UTC 版)
『続日本紀』には、天平宝字8年(764年)9月の恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱で、クーデターを起こした押勝が越前に逃亡しようと、愛発関の突破を試みた記事が記載されている。このときの押勝の動きをもとにし、愛発関の所在地が検討されている。 以下に乱の経緯を記す。 押勝:平城京から宇治を経て近江国へ向かう。 追討軍:先回りをし、勢多橋を焼き払うことで、押勝の進路を阻む。 押勝:湖西を北上し、高嶋郡に至る。 追討軍:先回りをし、越前国の押勝の息子の辛加知を斬る。 押勝:愛発関へ精兵数十を派遣するが、撃退される。「精兵数十を遣わして愛発関に入らしめんとす。授刀物部広成ら拒ぎてこれを却く。」 押勝:船で浅井郡塩津に向かうが、逆風で沈没しかけ、上陸し、山道から愛発へ向かうが、撃退される。「押勝、進退処を失い、即ち船に乗りて浅井郡塩津に向かう。たちまちに逆風ありて、船漂没せんとす。ここにおいて、更に山道を取りて直に愛発を指せども、伊多智らこれを拒ぐ。」 押勝:退却し、高嶋郡三尾埼で追討軍と戦闘。 押勝:形勢不利となり、船で逃亡、勝野の鬼江(現在の滋賀県高島市勝野の乙女ヶ池付近)で戦闘。 押勝:妻子とともに船で逃げるが、捕らえられ、斬られる。 押勝は三度越前国へ入ろうと試みている。撃退されて同じルートを取るとは考えられず、それぞれがどの道であるかが愛発関の所在地を推定する上でのポイントとなっている。二度目に船で向かった塩津からはD)深坂越を進むつもりであったとみる説が大半であるが、塩津から山越えでE)東近江路へ抜けようとしたと考える説もある。一、三度目のルートについては、一度目は「愛発関」と記載されており、関が置かれた奈良時代の官道A)西近江路、あるいはC)若狭経由の二つの説があり、三度目は「愛発」とだけ記されており、一度目とは異なる「愛発」山域のルートのB)白谷越ではないかと解釈されている。なお、「愛発山」は特定の山ではなく、史料からは滋賀県高島市北部から福井県敦賀市南部の間の山域を指すとみられ、古来から有乳、荒血、荒道山といった表記がされている。
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