古代北陸道と愛発関
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/10 03:44 UTC 版)
近江国と越前国を結ぶ交通路は、以下のように複数存在しており、愛発関が存在していた奈良時代にどのルートが官道であったのか という点が、その所在地を考察する上で大きな論点となっている。 A)西近江路(七里半越、山中越):海津-小荒路-野口-路原-国境-山中-駄口-追分-疋田、現状の国道161号。 B)白谷越(雨谷越、黒河越):石庭-白谷-黒河峠-雨谷、現状の黒河林道・マキノ林道。 C)若狭国を経由するルート:今津-水坂峠-上中-三方-郷市-関峠、現状の国道303号、国道27号。 D)深坂越(塩津街道):塩津-余-沓掛-深坂峠-追分、現在も山道である。 E)東近江路(北国街道):柳ヶ瀬-椿坂峠-栃ノ木峠-今庄方面、現状の国道365号。 F)新道野越:大浦-山門-新道-麻生口-曽々木-疋田、現状の滋賀県道286号、国道8号。 延長5年(927年)に完成した『延喜式』には、近江国の鞆結駅(滋賀県高島市石庭または白谷付近)、越前国の松原駅(福井県敦賀市の気比松原付近)が記載されており、二つの駅の位置関係からA)西近江路 あるいはB)白谷越のどちらかが北陸道の本路であったと推定されており、奈良時代も本ルートが官道であったとする説がある。 一方、それ以前に駅の改廃や道路の建設に関する史料があり、北陸道のルートには変遷があったとする見方がある。『類聚国史』の天長9年(832年)に「荒道山道」の工事の記事があり、「荒道」は「愛発」を指し、このときに西近江路か白谷越のどちらかが建設されたと考える説があり、それ以前はC) の近江国から若狭国を経由し越前国に至るルートが北陸道の本路であったと考える説もある。 若狭国経由の根拠としては、『古事記』に記載の仲哀天皇や応神天皇の行幸ルートが若狭国を通過しているとみられること、『日本紀略』の延暦14年(795年)に近江と若狭間の駅が廃止されたと解釈できる記事があること、『延喜式』では若狭国の駅は野飯駅・弥美駅の二駅のみであるが、平城宮から発掘された木簡には玉置駅と葦田駅の名称も見え、奈良時代には複数の駅があったとみられ、ルート変更による駅の改廃が示唆されること、などが挙げられている。 以上のように奈良時代の北陸道は、A)西近江路、B)白谷越、C)若狭国経由 のいずれかとされ、愛発関もこのルートから越前国に入ったところにあった可能性が高いと考えられている。また、不破関、逢坂関では大関・小関の二つの関をもち、複数の交通路を抑えるようになっていることから、愛発関も同様にA)~C)の一箇所だけでなく、二箇所に配置していたとする説もある。
※この「古代北陸道と愛発関」の解説は、「愛発関」の解説の一部です。
「古代北陸道と愛発関」を含む「愛発関」の記事については、「愛発関」の概要を参照ください。
- 古代北陸道と愛発関のページへのリンク