古代史研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 09:40 UTC 版)
『古事記』や『日本書紀』、特に神話関係の部分は後世の潤色が著しいとして史料批判を行った。その方法は津田の創始ではなく、明治以降の近代実証主義を日本古代史に当てはめ、記紀の成立過程についてひとつの相当程度合理的な説明を行った側面が大きい。明治以後の近代史学では、歴史の再構成は古文書、日記等の同時代史料によるべきであって、たとえば『平家物語』や『太平記』を史料批判なくして同時代史料に優先して歴史の再構成に使用してはならないという原則が、広く受け入れられていた。 ただし、同様の原則を古代史に適用することは、直接皇室の歴史を疑うことにつながるゆえに、禁忌とされてきた。それを初めて破って、著書の中で近代的な史料批判を全面的に記紀に適用したのが津田だった。それゆえ津田が従前の歴史学から離れた立場にあったわけではないが、津田の業績を基本的に承認・利用しつつ、その核心部分を肯定する文章を自ら書き下ろすことは避けようとする態度が他の学者にはあった。しかし、このような「津田史観」すなわち津田は記紀を「否定」したともされる見方について、津田自身はそれを「誤解」であるとしており、また、津田自身は天皇制を「否定」したことはなかった。津田は、日本の思想形成における中国思想の影響については否定的もしくは消極的な立場をとり、日本文化の独自性を主張した。 津田の個々具体的な主張には、かなり印象論的なものも多く、批判もあった。日本史の坂本太郎や井上光貞は、津田らの研究が「主観的合理主義」に過ぎないという主旨の批判を行っている。ただし、坂本や井上をはじめ戦後の文献史学者の多くは、津田の文献批判の基本的な構図を受け入れており、一般に継体天皇以前の記紀の記述については単独では証拠力に乏しいと見ている。歴史学界の外部からは、津田が歴史史料以外を信用せず、考古学や民俗学の知見を無視したことに批判がある。
※この「古代史研究」の解説は、「津田左右吉」の解説の一部です。
「古代史研究」を含む「津田左右吉」の記事については、「津田左右吉」の概要を参照ください。
- 古代史研究のページへのリンク