古代哲学と死生観
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/27 20:04 UTC 版)
葬儀という形での死に対する表現の起源は古く、ネアンデルタール人にさかのぼる。古代ギリシアにおいては人のことをbrotoiもしくはthanatoiと呼んだ。いずれも死すべき者という意味である。したがってギリシャ哲学において早くから死は本質的な主題として扱われていた。 ヘラクレイトスは「死後に人を待っているのは、彼らが予期もしなければ、また思いもかけないようなものなのだ」と述べた。ここには死を未来として捉える見方が示されているとともに、そのような未来のもつ二面性が適切に語られている。すなわち現に生きる個人が期待したり恐れたりする対象としての未来と、その未来が現在となったときにその予想や希望とは全く異なった形で現れてくる(あるいは現れてきてしまった)未来である。ここでは未来が現在とは全く関連性のないもので、現在から見れば未来は無に等しいという思想が述べられている。この言葉は死が基本的に予測不可能なものであることを示している。 エピクロスは「死はわれわれにとって何でもないことだ。われわれが存在している間は死は現存しないし、死が存在すればわれわれは現存しない」と述べて、死と生の本質的な無関係性を強調し、それを憂慮するには当たらないとした。しかしこのことは同様に、現在生きている個人が死を迎えるとともに、その存在を失ってしまう運命にあることを的確に捉えている。このことは死の側から眺めやれば、生に確実なものなど何もないということになる。なぜなら死とともに個人は全てを失うものであることが示されているからである。このように人間存在を予期せぬ消滅への存在として捉える見方に対し、ソクラテスとその思想をついだプラトンは、オルペウス教の影響を受けつつ霊魂の不滅を唱えた。霊魂は肉体とは異なる次元に永遠不滅に存在するもので、肉体は死ぬと無に帰するが、霊魂は死後肉体を離れて新たな次元で永遠の幸福に生きると説くものであった。人間存在の本質はこの霊魂であり、肉体がやがて無に帰するにも関わらず人間が尊厳を有するのは、この霊魂の永遠性によると説かれた。
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