消滅へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 21:19 UTC 版)
「ラルース (F1チーム)」の記事における「消滅へ」の解説
1993年からは、ようやくチーム名と同じ「ラルース」をコンストラクター名として使用するようになる。ドライバーは4年ぶりに復帰したアリオーとリジェから移籍したエリック・コマス。シーズン終盤の日本・オーストラリアGPでは、アリオーに代わって鈴木利男がスポット参戦した。 1994年に向けてチームは、F1参戦が噂されたプジョーとのパートナーシップを模索したが、プジョーは最終的にホンダ撤退以来ワークスエンジンを欲していたマクラーレンと契約した。ランボルギーニはマクラーレンへのエンジン供給を模索し、マクラーレンと共同でテストカーを制作もしていたが、マクラーレンはプジョーを使用することとなり、親会社のクライスラーの経営不振もあって1993年限りでF1から撤退した。結局、この年のラルースは非力なフォードHBシリーズ8エンジンを使用することとなった。ドライバーはコマスと新人のオリビエ・ベレッタ。クローネンブルグ(同社のTOURTELブランドによる緑カラーでの出走が多かった)をメインスポンサーに、ゴロワーズ、後半戦スポットながらジタン・ブロンドを獲得したもののこの年は際立った成績を残せなかった。資金不足は深刻で、シーズン中盤にベレッタの参戦資金が尽きてチームを離脱した後は、アリオーや久々のF1出走となったダルマス、野田英樹などのドライバーの持参金が頼りという状況であった。 資金難に陥っていたラルースはチーム存続をかけ、国際F3000に参戦していたDAMSと合併交渉を行なうが破談となる。その後1995年のF1参戦を断念していたフランスのレーシングチーム、ジュニアチームと交渉を行い合併合意がなされた。ドライバーとして、エリック・エラリーとクリストフ・ブシューと契約したが、合併合意が1995年シーズン開幕直前となったため大幅なレギュレーション変更に対応したマシンが準備できず、ブラジル・アルゼンチンの開幕2戦を欠場。エラリーに替わりベルナールとブシューをドライバーに据えサンマリノGPからの参加を目指したものの、結局1戦も出走することなく撤退した。 実働8年間のうち、無得点に終わったのは1988年のみで、1990年の鈴木亜久里3位表彰台を頂点に一時は中堅チームとして一定の存在感を示したが、度重なる資金トラブルが更なる飛躍を妨げた。チームは次々とオーナーが変わるなど安定した体制で参戦したシーズンは1度として無かったが、実際のチーム運営は一貫してマネージングディレクターのジェラール・ラルースとテクニカルディレクターのミッシェル・テツが取り仕切った。またドライバーの起用は1989年のアルボレートを除き全員が「フランス語圏」か「日本人」であり、特に日本人は起用したドライバー全員がラルースでF1デビューを果たしている。
※この「消滅へ」の解説は、「ラルース (F1チーム)」の解説の一部です。
「消滅へ」を含む「ラルース (F1チーム)」の記事については、「ラルース (F1チーム)」の概要を参照ください。
消滅へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 14:42 UTC 版)
1996年限りでのディニスの離脱は決まっていたが、パニスは残留し、無限ホンダとのエンジン供給契約も更新。無限の推する中野信治の加入も発表され、ブリヂストンタイヤの使用も濃厚と報道されるなど、1997年に向けてリジェは注目されていた。しかし1996年末にブリアトーレはアラン・プロストにチームの全株式を売却し、翌年よりプロスト・グランプリと改称されることになった。これによりF1からリジェの名は消滅した。
※この「消滅へ」の解説は、「リジェ」の解説の一部です。
「消滅へ」を含む「リジェ」の記事については、「リジェ」の概要を参照ください。
- 消滅へのページへのリンク