並存相剋から華夷秩序消滅へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 14:35 UTC 版)
「万国公法」の記事における「並存相剋から華夷秩序消滅へ」の解説
南京条約の締結によって中国に条約体制がもたらされたが、正確にはそれにより冊封や朝貢といった華夷秩序が一度に崩壊したわけではなく、しばらくの間華夷秩序と条約体制は相剋しつつも並存することとなった。欧米諸国とは条約を基礎とした関係(外交を担う役所総理衙門の設置や公使の相互派遣)を結ぶ一方で、清朝は朝鮮やベトナム、琉球といった周辺のアジア諸国とは旧来の華夷秩序を温存し、それを恒久的に維持しようとした。 しかし中国に対し冊封・朝貢を行っていた周辺諸国も、次第に欧米列強の植民地へと変えられていき、また清朝自身もロシアの伊犁地方占領や清仏戦争、日本の台湾出兵、日清戦争などアヘン戦争以降の度重なる列強からの外圧にさらされた。下関条約(1895年)によって、最後の朝貢国朝鮮が華夷秩序から離脱したことにより、中国を中心として機能していた華夷秩序は消滅した。
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