条約体制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 14:35 UTC 版)
華夷秩序では、国際関係を中華思想に基づく「礼制」によって律してきた。しかし欧米諸国は、「礼制」に変えて近代国際法に基づく条約によって国際関係を律する国際秩序を東アジアにもたらした。このことからこの国際秩序を条約体制と呼ぶ。また欧米によって強制された条約が不平等条約だったことから「不平等条約体制」と呼ぶこともある。 近代的国際秩序の起源はヴェストファーレン条約(1648年)に始まるとされ、その国際関係を律する秩序原理として近代的国際法は発達してきた。そして国際法を担う主体は主権国家とされた(近代的な主権国家については後述「4.4.1 『万国公法』がもたらした外交概念」を参照のこと)。上記華夷秩序との最も大きな相違点は、主権国家間の法的平等原則の存在である。華夷秩序では、自国と周辺諸国を文化面では「華/夷」という等級で順序付けし、政治面では君臣関係(宗主国―藩属国)として捉えており、中国王朝と周辺諸国が平等であることは原則的にありえない(ただし、実際には金と宋や匈奴と漢のような場合もある)。一方で条約体制では、国家・国力の大小に関係なく、主権を持つ国家は法的には平等・対等であるとされる。 しかしこの近代国際法の「万国平等」という理念は単なる理念に留まり、現実には万国に普遍的に適用されるようなものではなく、それは本来キリスト教諸国間だけに通用する「キリスト教国国際法」(“International law of Chirstendom”)ともいうべきものであった。 近代国際法は、崇高な正義と普遍性とを理念としているが、他方、非欧米諸国に対しては非常に過酷で、欧米の植民地政策を正当化する作用を持っていた。この国際法は適用するか否かについて「文明国」か否かを基準としているが、この「文明国」とは欧米の自己表象であって、いうなれば欧米文明にどの程度近いのかということが「文明国」の目安となっており、この目安によって世界は3つにカテゴライズされる。まず欧米を「文明国」、オスマン帝国や中国、日本等を「半文明国」(「野蛮国」)、アフリカ諸国等を「未開国」とした。「半文明国」に分類されると、主権の存在は認められるものの、その国家主権には制限が設けられる。具体的には不平等条約を砲艦外交(軍艦や大砲といった軍事力を背景に行われる恫喝的な外交交渉)によって強制された。さらに「未開国」と認定されると、その国家主権などは一切認められず、その地域は有力な支配統治が布かれていない「無主の地」と判定される。近代国際法は「先占の原則」(早期発見国が領有権を有する原理)を特徴の一つとして持っていたので、「未開国」は自動的に「無主の地」とされ、そこに植民地を自由に設定できるということになる(小林2002)。 以上に見るように、近代国際法はその適用を「文明国」とそれ以外によって使い分ける二つの顔を持っており、これを「近代国際法の二重原理」と呼ぶ研究者もいる(高村1998)。この近代国際法は、19世紀に入ると掲げられた理念とは裏腹な砲艦外交によって中近東、アフリカ、東アジア等世界全体に適用範囲を広げていった。 東アジアにおいて、この条約体制のはしりはアヘン戦争の後に締結された南京条約である。中国最後の王朝であった清朝とイギリスの間に結ばれた条約は、近代国際法に基づいた不平等条約であった。この条約の締結後、これをモデルとした条約を清朝は各国と締結していき、『万国公法』が翻訳刊行された当時、すでに20数カ国と条約が交わされていた。ただ条約の締結と、意識レベルで国際法の理念に遵うつもりがあったかどうかは別である。トルコでも中国でも不平等条約は当初、西欧諸国に与えた恩寵というとらえ方をし、自国の不利益性を意識していなかった。このような国際法への認識を改め、率先して条約体制に参加するよう促す一助となったのが、『万国公法』という一冊の国際法解説書であった。
※この「条約体制」の解説は、「万国公法」の解説の一部です。
「条約体制」を含む「万国公法」の記事については、「万国公法」の概要を参照ください。
- 条約体制のページへのリンク