東アジア国際秩序の再編
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東アジア国際秩序は、アヘン戦争以降それまであった華夷秩序から条約体制へのシフトが起こったが、清朝と欧米諸国との新たな関係がすぐに他の東アジア諸国との関係に直接的に波及したわけではない。東アジア国際秩序の再編の第二幕は、日本が条約体制に順応し、それを周囲の国に及ぼそうとしたことから開始されたのである(川島2007)。 『万国公法』などの近代国際法は、世界中の主権国家が互いに平等であり(「諸国平行の権」)、それは国家間の様々な権利と義務に基づくのだという「理念」を東アジアに伝えたが、それは華夷秩序における中国の圧倒的な優位を当然とする秩序観とは異質なものであった。しかし『万国公法』の「理念」は、西欧列強の強制という現実を伴いつつ東アジアに受容されていき、徐々に華夷秩序を覆すこととなった。 このような国際秩序変容に東アジアで最も早く順応したのは明治日本であった。倒幕時は攘夷鎖国を旗印にしながら、明治維新政府が成立すると対外的態度を一変させて開国を国是とし、条約体制に積極的に参加する姿勢を打ち出した。条約体制の到来を、華夷秩序を覆す好機として捉えたためである(川島1999)。そのために『万国公法』等の翻訳普及と、お雇い外国人からの近代国際法の知識吸収を積極的に図り、転じて「万国公法」を周辺諸国に積極的に適用していった。このことは清朝や朝鮮に対し、西欧列強による近代化・開国要求とは異なる影響を及ぼしていった。 清朝や朝鮮では、『万国公法』への不信からその「理念」に素早く共鳴することはなく、条約体制へのシフトは緩やかであった。当初は華夷秩序の堅持に努め、国際法を単なる道具としてのみ活用し、条約体制そのものには極力拒絶しようとする受容から、次第に国際法の理念をも受容する方向へと進んだ。そして緩やかなシフトは、華夷秩序と条約体制が並存する状態を東アジア国際社会にもたらしたのである。清朝は対西欧列強においては条約を締結する一方で、中国と周辺諸国の関係はこれまで同様華夷秩序における宗主国と藩属国の関係であり続けようとしたが、度重なる西欧列強との戦争によって、次々と朝貢国を喪失していき華夷秩序を維持することは事実上困難となっていった。最後に残った朝貢国朝鮮に対し、清朝は当初華夷秩序下の「属国」と近代国際法における「属国」とは異なるという主張をしたが、その説得力がないと判断するや、近代国際法的な「属国」へと朝鮮を改変しようと試み、馬建忠や袁世凱を朝鮮に派遣し、直接朝鮮国政に関与しようとした。その朝鮮も日清戦争後に締結された下関条約によって、清朝との宗主国―藩属国関係を完全否定され、華夷秩序は終焉を迎えることとなった(茂木1997、岡本2004)。
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