両截体制とは? わかりやすく解説

両截体制(1882–1892)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 14:35 UTC 版)

万国公法」の記事における「両截体制(1882–1892)」の解説

日朝修好条規締結以後日本朝鮮政治への介入露骨さを増すと、それに比例して日本への反感増加した。その一つ頂点壬午事変1882年)・甲申政変1884年)である。事件そのものはすぐ鎮圧されたが、これ以後日本の影響力は減少し朝鮮近代化清朝指導仰ぎながら推進されることとなった。すなわち「東道西器」という中国の「中体西用」に似たスローガン掲げ新式軍隊外交顧問設置し高宗は「公法」に依拠して国際社会参加することを宣言した儒者たち保守層の反対上奏文もなりを潜めるようになり、逆に国際法受容求めるものが上奏されるようになっていく。たとえば『万国公法』などの西学書を常備し図書館教育機関設置、あるいは全国への配布官僚たちから上奏されている。 ただこのような事態は、条約体制朝鮮主権国家として直ち参入したことを意味するものではない。壬午甲申事変の後に日本変わって大きな影響力をもつようになった清朝朝鮮背後にいて、華夷秩序の「属国」から条約体制の「属国」への転換画策していたため、この時期朝鮮には華夷秩序条約体制併存する状態に置かれていた。これを「両截体制」(りょうせつたいせい)という。「両截」とは二重意味し過渡的な性格持っていたといえる近代国際法受容進めた朝鮮であったが、やがて開化派の中の急進分子積極的に華夷秩序からの離脱模索するようになっていった。たとえば 朴泳孝らは来日した折り在日各国公使館を巡り清朝介在しない形での条約締結呼び掛けている。それは国家主権回復し各国独立国として認められるための行動であった急進的な一派形成されるためには、ある程度国際法世界情勢知識普及不可欠であるが、その知識浸透寄与したのが『漢城旬報』や『漢城周報』といった雑誌新聞近代メディアであった。これらは国際法知識実態紹介しているが、その情報は『万国公法』や同じくマーティン翻訳の『公法便覧』、中国の諸新聞基づいている。記事朝鮮清朝の関係を国際法知識から論ずるものが多く、「独立」・「自主」・「均勢」がキータームとなっていた。周辺西欧列強現れ清朝日本近代化するという国際環境にあって朝鮮はいかに生存を図るべきかということが、人々主要な関心事として浮上しはじめていたため、国際法知識積極的に求められていた。「両截体制」下において、『万国公法』は普及し政局にも影響及ぼし始めたのであるその広がりの中で兪吉濬(유길준)のように近代国際法に非常に深い見識をもった人も現れてきた。彼の著作西遊見聞』(서유견문)は福沢諭吉の『西洋事情』から深い影響受けて著された啓蒙であって、「両截体制」ということばは、この著作由来するこの中に「邦国権利」という部分があり、これは『西洋事情』にはない部分であるが、ここに国際法についての詳しい知識うかがえる。それによれば朝鮮は「両截体制」に置かれているが、それでも国際法照らした場合独立国位置づけることができるとする。兪吉濬はその国際法に関する詳しいことを買われて、朝鮮外交政策対し意見求められてもいる。(金鳳2004

※この「両截体制(1882–1892)」の解説は、「万国公法」の解説の一部です。
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