両截体制(1882–1892)
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「万国公法」の記事における「両截体制(1882–1892)」の解説
日朝修好条規締結以後、日本の朝鮮政治への介入が露骨さを増すと、それに比例して日本への反感が増加した。その一つの頂点が壬午事変(1882年)・甲申政変(1884年)である。事件そのものはすぐ鎮圧されたが、これ以後日本の影響力は減少し朝鮮の近代化は清朝の指導を仰ぎながら推進されることとなった。すなわち「東道西器」という中国の「中体西用」に似たスローガンを掲げ、新式軍隊や外交顧問を設置し、高宗は「公法」に依拠して国際社会に参加することを宣言した。儒者たち保守層の反対上奏文もなりを潜めるようになり、逆に国際法の受容を求めるものが上奏されるようになっていく。たとえば『万国公法』などの西学書を常備した図書館兼教育機関の設置、あるいは全国への配布が官僚たちから上奏されている。 ただこのような事態は、条約体制に朝鮮が主権国家として直ちに参入したことを意味するものではない。壬午・甲申両事変の後に日本に変わって大きな影響力をもつようになった清朝が朝鮮の背後にいて、華夷秩序の「属国」から条約体制の「属国」への転換を画策していたため、この時期の朝鮮には華夷秩序と条約体制が併存する状態に置かれていた。これを「両截体制」(りょうせつたいせい)という。「両截」とは二重を意味し、過渡的な性格を持っていたといえる。 近代国際法の受容を進めた朝鮮であったが、やがて開化派の中の急進分子は積極的に華夷秩序からの離脱を模索するようになっていった。たとえば 朴泳孝らは来日した折り、在日各国公使館を巡り、清朝が介在しない形での条約締結を呼び掛けている。それは国家主権を回復し、各国に独立国として認められるための行動であった。急進的な一派が形成されるためには、ある程度の国際法や世界情勢の知識の普及が不可欠であるが、その知識浸透に寄与したのが『漢城旬報』や『漢城周報』といった雑誌・新聞(近代メディア)であった。これらは国際法の知識や実態を紹介しているが、その情報は『万国公法』や同じくマーティン翻訳の『公法便覧』、中国の諸新聞に基づいている。記事は朝鮮と清朝の関係を国際法の知識から論ずるものが多く、「独立」・「自主」・「均勢」がキータームとなっていた。周辺に西欧列強が現れ、清朝や日本が近代化するという国際環境にあって、朝鮮はいかに生存を図るべきかということが、人々の主要な関心事として浮上しはじめていたため、国際法の知識は積極的に求められていた。「両截体制」下において、『万国公法』は普及し、政局にも影響を及ぼし始めたのである。 その広がりの中で兪吉濬(유길준)のように近代国際法に非常に深い見識をもった人も現れてきた。彼の著作『西遊見聞』(서유견문)は福沢諭吉の『西洋事情』から深い影響を受けて著された啓蒙書であって、「両截体制」ということばは、この著作に由来する。この中に「邦国の権利」という部分があり、これは『西洋事情』にはない部分であるが、ここに国際法についての詳しい知識がうかがえる。それによれば朝鮮は「両截体制」に置かれているが、それでも国際法に照らした場合、独立国に位置づけることができるとする。兪吉濬はその国際法に関する詳しいことを買われて、朝鮮の外交政策に対し意見を求められてもいる。(金鳳珍2004)
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