両性愛の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/22 07:03 UTC 版)
教養的な社会[どこ?]における歴史的および文学的な記録[要出典]は、古代より男性の両性愛が日常的なことであって、実際に望ましいことであったのだと示している。このような性的関係は一般に年齢的構造をとったり(古代ローマ帝国時代までの少年愛や、中世から近代の日本における衆道のようなもの)、もしくは文化・社会的構造を取ったり(同じ身体に2つの異なる性が存在すると考えた北アメリカに伝統的なものや、中央アジア地方のイスラム社会における少年愛のようなもの)していた。男性の異性愛や同性愛は記録に残ってはいるが、そのほとんどがむしろ例外的なものとして現れている(アブラハムの宗教のように、異性愛者を特権化し、同性愛や両性愛を強く弾圧する宗教に影響を受けている社会のように非常に特殊な例がまれに存在するが)。先の文化における男性「同性愛」の例としてしばしば引用されるものの多くは、実のところはどちらかというと両性愛に分類した方が適切であるのだ[要出典]。 女性による両性愛の歴史を確定することはもっと厄介な問題である。というのも、研究されている社会の大部分で女性は男性より社会的に低い身分に置かれ、かつ移動や表現の自由が制限されて自分自身を考えることも少なく、他方では女性が歴史を文字に記し伝える立場になかったからである[要出典]。 古代ギリシャでは、一般に男性は、思春期のうちに同性愛的指向を示す段階を経験し、続いて青年期において少年愛に特徴を見いだせる両性愛的指向を示す段階を経験し、そこから人生の遅い時期に結婚し子どもを作る時になって初めて異性愛的指向を示す段階に至るのだと考えられていた[要出典]。古代ローマ帝国や、中国、日本、また現在もその慣習の残るアラブ諸国においても男性は類似の両性愛的振る舞いを見せていた[要出典]。特に日本においては、衆道にみられる実践とそれに関連する美術作品や文学作品が莫大な数遺されてきていたために、本来なされてきた両性愛的ライフスタイルはとても詳細に記述されているし、なんと19世紀に至るまで実際にその習慣が続いてきているのである。 おそらく最も有名[要出典]な例は複数の妻と愛妾を持っていたアレクサンドロス大王であろう。多くの歴史作家[誰?]は彼には少なくとも2人の男性の恋人がいたのだと断言している。そのうちのひとりヘファイスティオンは彼の古い友人である。両性愛的振る舞いはローマ皇帝や中国皇帝、日本の将軍・戦国大名たちの間ではしばしば見られることであった。 プラトンの著作『饗宴』はアルキビアデス(ソクラテスの元恋人)のくだりから同性愛の書物とされることも多いが、同時に両性愛に関する有名な寓話も含む。男女(アンドロギュノス)の話がそれで人間は両性に分かれる前は一体であったが、神によって今の男と女に切り離されたため以前の状態に戻ることを渇望して互いに求め合う、というものである。ギリシアの彫刻ではこの寓話に基づいて男女の美点を繋ぎ合わせた「ヘルムアプロディテ」という像が作られた。プラトンのイデア説から禁欲主義が発達したように、後の宗教界でも異性愛をも含めた禁欲の概念が無いわけではなかったが抑圧したものとして続いていた。
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