1995年シーズン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/28 07:22 UTC 版)
「ティレル・023」の記事における「1995年シーズン」の解説
第13戦ポルトガルGPのスタート直後に大クラッシュに遭った片山右京は第14戦ヨーロッパGPを欠場した。代役にテストドライバーのガブリエル・タルキーニがたてられた。第15戦からは再び右京が復帰した。 1994年の活躍から、さらに躍進が期待されたティレルだったが、ミカ・サロの3度の入賞による5ポイントしか獲得できないシーズンを送った。ノキアはこの年いっぱいでスポンサーから撤退した。 最終戦オーストラリアGPのスタート直前、サロは「あと80周だけしたら、二度とこの車に乗らなくて済むと思うと、嬉しくて」とコメントするほど、023の出来は良くなかった。
※この「1995年シーズン」の解説は、「ティレル・023」の解説の一部です。
「1995年シーズン」を含む「ティレル・023」の記事については、「ティレル・023」の概要を参照ください。
1995年シーズン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/01 08:05 UTC 版)
「リジェ・JS41」の記事における「1995年シーズン」の解説
当初、ドライバーはオリビエ・パニスと鈴木亜久里であったが、鈴木が日本に帰国した時にはマーティン・ブランドルとのシートシェアがチームから発表された。これは、チームのマネージングディレクターのトム・ウォーキンショーが無限エンジン獲得のために鈴木を起用したに過ぎなかったのと、以前よりスポーツカーなどで起用し懇意にしていたブランドルを優先させたいという思惑などが理由である。 第9戦ドイツGPで鈴木が4年ぶり(1991年アメリカGP以来)の入賞を、第11戦ベルギーGPではブランドルが3位表彰台を、第17戦オーストラリアGPではパニスが終盤エンジンから白煙を噴きながらも2位表彰台を獲得したが、チームとしてはリタイヤも多く、課題の残るシーズンとなった。
※この「1995年シーズン」の解説は、「リジェ・JS41」の解説の一部です。
「1995年シーズン」を含む「リジェ・JS41」の記事については、「リジェ・JS41」の概要を参照ください。
- 1995年シーズンのページへのリンク