国際F3000
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 18:49 UTC 版)
1986年、F1で勝利を挙げ始めたホンダのサポートを受け、全日本F2選手権へ参戦しつつ、国際F3000選手権にも参戦した。中嶋は生活拠点をロンドン郊外へと移しベースを築きながら国際F3000を転戦し、全日本F2のためその都度帰国するスタイルの1年となった。このため、長らく参戦してきた富士GCへの参戦は休止した。これは、F1へのステップアップのために国際的な実績を積むためと、当時のスーパーライセンス発給基準は「実質的に国際F3000選手権に1シーズン出場しているか、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、日本、南アフリカのF3選手権の現チャンピオンか、前年のF1世界選手権に5回以上スタートしている」となっていた為であった。ホンダからのサポートは受けていたが、欧州に立つ時点で翌年F1に行ける確約を得ていたわけではなく、中嶋は「国内F2に参戦していたのはこの国際F3000への遠征資金を捻出するためだし、チャンスは自分で作らないとダメなんだ。F1は所詮ヨーロッパの物だから、すべてを捨ててでも海外へ出る覚悟みたいなものが無いと。国際F3000に出場しないより出場した方がましでしょ。」という考え方により欧州での参戦に至っていたが、朗報は中嶋が考えているよりも早い時期に訪れた。 まだシーズン中盤戦だった同年8月5日、ホンダ主催による「87HONDA F1新体制記者会見」が新宿センチュリーハイアットにて開かれ、中嶋が来季チーム・ロータスからF1デビューすることが発表された。中嶋の引退後の回想によると、「この年に自分がヨーロッパに行くと決めて実際に参戦するという行動に移したら、急にとんとん拍子に話が動き始めてF1に乗れることが決まった」と述べている。中嶋はこの8月の会見の壇上で「今まで国内で応援してくださったファンの皆様にお会いできなくなりますが、精いっぱい力を出して頑張ります」「世界一流のドライバー、世界最高のクルマで争う中で僕が戦うというのは、たぶん大変なことと思います。日本人として、ホンダエンジンユーザーとして、チーム・ロータスのドライバーとして恥ずかしくない戦いをしたいと思います」と述べた。これは公式会見でレースを知らない多くの人も見ると意識した発言で、この3日後にF2トレーニング走行のため富士スピードウェイにいた中嶋は「やってみなきゃ全然分かんないよ(笑)。F1での2年目くらいからいいとこ行く奴はいるけど、初年度から3番以内に入れた奴が何人いるのか。初年度で6位以内に入れればいいんじゃない。もし、入れるのならね。あのF1のグリッドにいることがとんでもないことだからさ。」「ちゃんとわかってる人はそんなふうには見ないけど、いきなりピケやセナと一緒にされちゃって、1、2回見ただけで中嶋は通用しなかったじゃないかと記事にされたら堪らないけどね。俺はここまで来るのに10年かかって来たのに、1、2レースで判断されたら、この野郎って気がするよ。そういうマスコミなら喋らない方がいいだろうね。」との本音を述べている。 国内のF2選手権とヨーロッパでのF3000同時参戦という過密スケジュールに加え、初コースや時差に戸惑いながらも堅実な走りを見せ、オーストリア(エステルライヒリンク)での決勝4位を最高位とし数回の入賞を記録。国際F3000ランキング10位という結果を残した。
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国際F3000
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「ジョルディ・ジェネ」の記事における「国際F3000」の解説
マールボロの支援によりパシフィック・レーシングのシートを得て、1992年は国際F3000に参戦した。レイナード・無限を駆って、シルバーストンで開催された開幕戦をデビュー戦優勝で飾り、シーズン自体もランキング5位で終えた。 翌年は、エイドリアン・カンポスにより構想されたスペインのF1チーム発足計画、「ブラヴォF1」に関わった。この計画は数台のシャシーを製造する程度には進展したものの、結果的に実ることはなく、ジェネは1993年にはF3000へと復帰することとなった。 所属したトム・ウォーキンショー・レーシングジュニアチームの戦闘力ははかばかしくなく、わずかなポイントを獲得するに留まったが、ここでチームオーナーであるトム・ウォーキンショーと知己を得たことにより、1994年には国際F3000に参戦するかたわら、F1のベネトンチームでテストをする機会に恵まれた。
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