消滅まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/05 01:46 UTC 版)
小野田も対抗戦の途中で日本棋院に復帰し、野沢は1931年に死去、残るのは雁金と高部、及びそれぞれの弟子のみという状態となった。1930年6月に月刊機関誌『碁』を発刊、高部による打碁講評と、雁金の随想「ぶらつ記」などを掲載した。その後の参加棋士としては、東京の渡辺昇吉、荒木親吉、小沢了正、大阪の都谷森逸郎、堀憲太郎、堀田忠弘、吉田浩三、橋本国三郎、名古屋の稲垣日省、渡辺英夫などがいる。三宅一夫は名古屋に中部日本囲碁連盟(後に東海棋院)を設立するなど、地方都市や朝鮮、台湾に支部を設けるようになる。 1933年には雁金と高部の八段昇段を発表する。これには日本棋院の機関誌『棋道』に大倉喜七郎名で異議が掲載されたが、それ以上の問題には発展しなかった。 1941年に雁金が呉清源との十番碁実施などのために高部と対立し、雁金の娘婿でもあった渡辺昇吉六段など一門の棋士を率いて棋正社を離脱して瓊韻社を設立。高部の懐刀と言われていた小沢了正五段もこれに追従した。棋正社には高部だけが残ることとなり、事実上消滅となった。東海棋院の長村正英、吉川潔、板野棋源各三段、植松弘聖二段は、戦後1948年に日本棋院東海支部が東海本部に再組織する際に合流した。
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