安政の大獄と桜田門外の変(1858年 - 1860年)
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「幕末」の記事における「安政の大獄と桜田門外の変(1858年 - 1860年)」の解説
1858年6月4日(安政5年4月23日)に大老に就任した井伊直弼(彦根藩主)は、将軍継嗣問題と条約問題とを強権的な手法で一気に解決をはかった。すなわち、将軍職については、大老就任直後の1858年6月11日(安政5年5月1日)紀州慶福を後継に決定する。慶福は家茂と改名し、江戸城へ入った(将軍就任は安政5年10月25日)。直弼自身は勅許は必要と考えていたが、勅許不要とする老中の松平忠固に押され、7月29日(安政5年6月19日)、勅許の降りないまま井上清直と岩瀬忠震を全権として日米修好通商条約を調印した。調印直後に井伊は堀田と松平忠固の二老中を罷免し、代わって老中在職経験のある太田資始(道醇、前掛川藩主)・間部詮勝(鯖江藩主)・松平乗全(西尾藩主)を老中に任命した。その後、日米修好通商条約と同様の条約がイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結ばれた(安政の五ヶ国条約)。開市開港は段階的に行うとされたが、これについては井伊の後継である安藤信正が派遣した文久遣欧使節によりロンドン覚書が調印され時期をずらすことになる。 こうした直弼の強権的手法には反撥が相次ぎ、徳川斉昭・徳川慶勝(尾張藩主)・松平慶永らは抗議のため登城するが、無断で登城したことを理由に逆に直弼によって謹慎処分を受けることとなった。孝明天皇を無視する形で条約調印が続くと幕府寄りだった関白・九条尚忠は天皇の信頼を失い孤立していくが、それでも「内覧」権を有する関白は依然として最重要人物であった。それが1858年9月14日(安政5年8月8日)に内覧を経ずに幕府と水戸藩へ戊午の密勅が出され、その後に九条関白が幕府のために情報を壟断していた事実が明らかとなり辞職を求める内勅が出されて内覧は停止された。 失地回復を図るべく老中の間部詮勝、京都所司代の酒井忠義が上洛し、この密勅に関わったとして近藤茂左衛門、梅田雲浜を逮捕したことを皮切りに、尊攘志士の頼三樹三郎や、前関白の鷹司政通の家臣の小林良典など、公家の家臣も含めた井伊が主導する幕府に反発する人物が次々と捕らえられた。この威嚇を背景に、間部は九条関白の復職と慶福改め家茂の将軍宣下を実現権威させ、事実上の条約勅許まで獲得した。間部のさらなる朝廷への威圧により、攘夷派の左大臣近衛忠煕・右大臣鷹司輔煕が辞官し、前関白の鷹司政通・前内大臣三条実万とともに落飾・出家するに至った。 江戸においても、井伊によって弾圧が行われた。特に水戸藩への弾圧は苛烈を極め、家老の安島帯刀は切腹、奥右筆の茅根伊予之介は斬罪、密勅を江戸に運ぶのに関わった鵜飼吉左衛門・幸吉父子はそれぞれ斬罪・獄門となった。大名や旗本では徳川斉昭が永蟄居、一橋慶喜・伊達宗城(宇和島藩主)・山内容堂(土佐藩主)らが隠居謹慎に処されたほか、一橋派と目された幕臣の岩瀬忠震や永井尚志が免職のうえ永蟄居を命ぜられ、さらには老中の太田資始・間部詮勝も罷免された。また、逮捕された三条家家臣の飯泉喜内の手紙から、検挙者が増え、橋本左内なども捕縛された。京都で捕らえられた人物は江戸に送られ、江戸の逮捕者とともに取調べが行われた。取調べの結果、橋本左内・頼三樹三郎・飯泉喜内・松下村塾の主催者吉田松陰は斬罪となった。梅田雲浜や小林良典、密勅に関わった薩摩藩士日下部伊三治らは獄死した。これら世論や朝廷へ働きかける運動家、オピニオンリーダー、その保護者やシンパである封建諸侯、幕府内部の実務官僚らが標的となった政治的弾圧を「安政の大獄」と呼ぶ。水戸藩内では戊午の密勅返還問題を巡りセクト主義に陥り、激派と鎮派(暫進的改革派)に分裂、彼等と対抗する門閥派の諸生党と混迷を極める結果になる。 安政の大獄は、旧一橋派や攘夷派・尊皇派の反撥を招く。度重なる弾圧に憤慨した水戸藩の激派や薩摩藩の浪士は、密かに暗殺計画を練り、1860年3月24日(安政7年3月3日)、江戸城登城の途中の直弼を桜田門外にて襲撃して暗殺を決行した(桜田門外の変)。政権の最高実力者に対する暗殺という結果は、幕府の権威を大きく失墜させることとなった。
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