井伊の赤備え
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武田氏滅亡後、本能寺の変による武田遺領争奪戦(天正壬午の乱)を経て甲斐は徳川家康によって平定されるが、その折に武田遺臣を配属されたのが徳川四天王にも数えられる井伊直政である。武田の赤備えを支えた山県隊の旧臣達も直政に付けられ、これにあやかって直政も自分の部隊を赤備えとして編成している。井伊の赤備えは小牧・長久手の戦いで先鋒を務めて奮戦し、「井伊の赤鬼」と呼ばれ恐れられた。以後幕末に至るまで井伊家が治めた彦根藩の軍装は足軽まで赤備えをもって基本とされた。 大坂の陣の折、家康が軍装の煌びやかな井伊直孝隊を見て平和な時代で堕落した赤備えを嘆いた。その中で使い古された具足を身に付けている者達を発見し、「あの者らは甲州からの家臣団であろう」と言い、確認が取れると「あれこそが本来の赤備え」と言ったという。 アメリカの黒船艦隊来航に備えた相模湾から江戸内海の警備でも井伊の赤備えが出陣している。1853年(嘉永6年)6月3日の浦賀来航の様子を描いた『ペリー浦賀来航図』に、彦根勢の赤い陣羽織や旗差物などが描かれている。 1866年(慶応2年)の第二次長州征伐では井伊直憲率いる彦根藩が芸州口の先鋒を務めた。長州藩のミニエー銃に対し、彦根藩は赤備えに火縄銃という古来から伝わる兵装で挑むが、小瀬川を渡ろうとした所を長州軍石川小五郎率いる遊撃隊のアウトレンジ戦法を受け一方的に敗れる。この時、赤備えであったことがかえって格好の的となり、夜間にも関わらず長州軍の狙撃を容易にした。この為、彦根藩兵は由緒ある鎧を脱ぎ棄てて逃走した。この後、1868年(慶応4年)1月の鳥羽・伏見の戦いでも彦根藩は幕府軍の先鋒として出陣するも大敗し、寝返って官軍についた。この時、井伊隊に属していた兵の全員が象徴とも言える赤備えの兜や鎧を始めとする全ての装備品を脱ぎ捨てたという。 なお、上述の初代彦根藩主・井伊直政と、安政の大獄と桜田門外の変で有名な15代彦根藩主・大老井伊直弼は、赤備えにちなみ「井伊の赤鬼」と呼ばれた。また、滋賀県彦根市のマスコットキャラクターひこにゃんの兜は「井伊の赤備え」伝来品をモデルとしており、その兜の様式(天衝脇立)は彦根藩主のものと同じとされる。
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井伊の赤備え
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天正10年(1582年)の後北条氏との講和によって、武田氏の旧臣達約120人と家康の旗本の一部が配属されたことから始まる。この時、家康により直政は兜や鎧を始めとする戦で使用する全ての装備品を赤色で統一させた。これはかつて武田の赤備えの将であった山県昌景の意志を継ぐという意味もあったが、その他に赤色だと目立ちやすく、戦の最中にどこに自分の部下達がいるのかが一目で分かるという意味もあった。以後、井伊氏の軍装は幕末まで赤備えを基本とされた。
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