武田の赤備え
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 19:16 UTC 版)
武田信玄率いる武田軍の赤備えを最初に率いたのは後世に「甲山の猛虎」とも謳われた飯富虎昌で、騎兵のみからなる騎馬部隊として編成された。元々朱色は侍の中でも多くの首を上げた者にのみ大名から賜るものだった。そこで、自領は父からは譲られず自らの槍働きで稼ぐしかない各武将の次男たちを朱色で統一した赤備の部隊に組織化、現代風にいえば切り込み隊として組織した。1565年(永禄8年)に虎昌が義信事件に連座し切腹すると、虎昌の部隊は彼の弟(甥とも)とされる山県昌景が引継ぎ、同時に赤備えも継承したという。虎昌・昌景の両者は『甲陽軍鑑』において武勇に秀でると共に武田家及び武田軍の中心として活躍した武将として記されており、両名の活躍が赤備えの価値を高めたと言える。また、『軍鑑』によれば武田家中では昌景と共に小幡信貞、浅利信種の2名が赤備えとして編成され総勢千騎だったという。 発給文書においては、1572年(元亀3年)・1574年(天正2年)の武田信豊宛武田家朱印状など、武田氏の軍制において武具や兵装に関する規定が存在していたことを示す文書が見られる。元亀3年文書では武田信玄が信豊に対し装備を朱色で統一することを独占的に認めており、天正2年文書では武田勝頼により信豊の一手衆が黒出立を使用することを許可されており(これは『甲陽軍鑑』や『信長公記』の長篠合戦時における記述と符合している)、武田軍では一手衆ごとに色彩を含めて兵装の規格化が整えられていたと考えられている。 武田の赤備えが強かったため、「赤備え=精鋭」というイメージが諸大名の間で定着したと言われる。その後、真田信繁(幸村)や徳川精鋭部隊の井伊直政が赤備えを採用したことでもこの事実が読み取れる。
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