義信事件とは? わかりやすく解説

義信事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 14:11 UTC 版)

武田義信」の記事における「義信事件」の解説

甲陽軍鑑』に拠れば永禄7年1564年7月義信傅役である飯富虎昌側近長坂源五郎曽根周防守らが信玄暗殺密談をしていたが、計画事前に虎昌の実弟である飯富三郎兵衛密書により露見し永禄8年1565年1月、虎昌以下は謀反首謀者として処刑され80騎の家臣団追放処分となったという。 武田義信同年10月甲府東光寺幽閉され義元の娘と強制的に離縁の上後継者としての地位失い同年11月13日には異母弟諏訪勝頼織田信長養女龍勝院迎えて誼を通じたという。また、甲陽軍鑑』では事件背景第4次川中島の戦い顛末や、勝頼が高遠城となったことに対す不満にあるとしている。 義信事件について詳しい経緯不明であるが、永禄3年桶狭間の戦いにおける今川義元戦死永禄4年第4次川中島の戦い後の北信地域安定契機に、武田氏対外方針転換し、義信事件後には今川氏との関係悪化し永禄11年には今川領国への駿河侵攻開始されているが、主要な武田氏研究者の間では事件背景に親今川派の立場にある義信今川領国への侵攻志向する信玄の間に派閥抗争存在していたことを想定する見解一致している。また、信玄信長同盟永禄年間以降東濃地域織田氏武田氏勢力圏接して紛争起こり始めたために両者調整必要になったために締結された(特定の勢力を敵とするものではない)とみられるが、今川氏義信がそうは受け止めなかったことが深刻な事態招いた可能性指摘されている。 事件後の永禄10年1567年8月7日には小県郡生島足島神社において、領国内の家臣団信玄への忠誠を誓わせた起請文奉納されているが(『戦武』1099ー1186号)、これは事件後に生じた家臣団動揺鎮める意図であったとする見解がある。 甲斐国二宮美和神社奉加帳(『美和神社文書』)に拠れば永禄8年1565年6月長坂曽根らによる太刀奉納が行われており、『軍鑑』の誤筆で事件発覚永禄8年1565年7月のことであるとも考えられている。また、永禄8年1565年10月23日武田信玄西上野の玄五郎宛てた返書(『戦国遺文959号』によれば信玄飯富らによる密謀発覚したので即刻成敗したと記していることからも、虎昌らの成敗永禄8年1565年9月~10月のことであるとも指摘され平山2001))、近年発見され高野山成慶院甲斐国供養帳」により、飯富死去同年10月15日であることが確認されている。 また、甲斐南部には駿河接した河内領があり、河内領主武田御一門衆穴山氏信友信君期に武田宗家姻戚関係をもち、武田今川間の甲駿同盟取次天文21年義信今川義元娘の婚姻仲介している。穴山氏武田宗家従属しつつも今川氏と深い関係にあったが、義信以降永禄11年末に武田氏今川領国への侵攻開始し駿河侵攻)、穴山氏軍事行動主導している。 義信事件における穴山氏立場不明であるが、永禄9年12月5日当主信君の弟にあたる穴山八郎(信嘉、信邦)が身延山久遠寺塔頭において自害しており、義信事件に際して穴山氏では当主信君信玄派に属し、弟の彦八郎義信派に属した内訌生じていた可能性考えられている。

※この「義信事件」の解説は、「武田義信」の解説の一部です。
「義信事件」を含む「武田義信」の記事については、「武田義信」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「義信事件」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「義信事件」の関連用語

義信事件のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



義信事件のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの武田義信 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS