今川氏との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 07:59 UTC 版)
その後、貞親は将軍の赦免を受けて京都へ復帰した。応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こると、駿河守護の今川義忠が上洛して花の御所に入り東軍に属した。義忠は貞親の屋敷をしばしば訪れており、盛定は本宗家と今川氏との申次を務めた。その縁で盛定の娘の北川殿が義忠の妻となったと考えられる。伊勢宗瑞が素浪人と考えられていた時期は北川殿は側室とされていたが、近年の研究では将軍近臣の備中伊勢氏と今川氏とは家格に遜色がなく北川殿は正室だったと考えられている。結婚の時期は応仁元年頃と推定されている。北川殿は文明3年(1471年)に嫡男龍王丸(今川氏親)を生んだ。 文明3年(1471年)に備中荏原郷で発給された文書に宗瑞(盛時)の署名があり、この時期、宗瑞は京都で活動する父に代わって所領の荏原郷の支配を行っていたと推測される。 文明8年(1476年)、今川義忠は遠江で横地氏、勝間田氏と戦い勝利するが、帰路に残党に襲われて討ち死にした。従来、横地氏と勝間田氏は西軍の斯波義廉に内応したために義忠がこれを討ったとされていたが、近年の研究によって、これ以前から義忠は東軍の斯波義寛(義敏の子)の遠江の被官の国人と戦っていることが明らかになっており、義忠は同じ東軍と戦っていたことになる。この際に盛定は婿の義忠ではなく横地氏、勝間田氏を支援していたと考えられている。
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