不明確な前半生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/07 07:18 UTC 版)
保成は近世大名である長岡牧野家の系図によれば牧野成種の子とされるが、生年は不明である。天文期に入ると、写しも含めた古文書類によって、保成が今川氏との関係性において積極的に活動していたことが類推される。天文7年(1538年)牛窪北鉄屋大工の助九郎へ与える免許状(牛窪北鉄屋大工助九郎安堵状)に「保成」名義で連署しており、現在知られている保成の最古の同時代文書である。この文書への署名は実名のみで田三郎などの通称は記されていない。 同時代文書は無いが、諸記録に享禄2年(1529年)宝飯郡長山村の牛窪に牧野右馬允と共に新城(いわゆる牛久保城)を築造したとされる。また『牛窪記』には、牛久保城主は、牧野保成とある。しかし、保成自身がこの新城・牛久保城の城主と成ったかどうかは明確ではない。後世の寛政重修諸家譜等には牧野氏勝(成勝・民部丞)・牧野貞成(民部允・右馬允・新二郎)・牧野成定(右馬允・新次郎、成守とも)と相伝されたことになっている。 また、牛久保には古城としての「牛窪城」が在ったともいい、あるいは近隣の大聖寺と並ぶ長山一色城が有り、これを後に「牛窪城」と称したともいう。『牛窪密談記』では「一色の城(牛窪に改名す)を牧野出羽守保成が守護した」との記述もあることから、いずれにせよ保成は「牛窪城」を居城としていたと推定される。
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