今川時代とは? わかりやすく解説

今川時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 01:45 UTC 版)

臨済寺 (静岡市)」の記事における「今川時代」の解説

享禄年間1528年1532年)に、今川氏親が、出家した子・栴岳承芳せんがくしょうほう、後の今川義元)のために、母・北川殿今川義忠室、伊勢宗瑞姉)の別邸跡に、太原雪斎たいげんせっさい)を招き建立した寺院・善得院が前身である。 天文5年1536年)、栴岳承芳の兄・今川氏輝急逝したため、今川家家督を巡る「花倉の乱」が起こったこの内訌で弟の玄広恵探破り家督次いだ今川義元は、同年、氏輝を当寺葬った法名臨済寺殿用山玄公)。この際に、「善得院」を氏輝の法名由来する臨済寺」と改め京都妙心寺霊雲院大休宗休開山とした。そして、実際の運営掌る2代目住持として、大休宗休弟子太原崇孚雪斎招かれた。 雪斎は、当寺駿河勅願寺昇格させた上、天文23年1554年)には「歴代序略」臨済寺雪斎書院刊を出版するなどして今川領国内に臨済宗広げたため、寺勢は大い興隆した。さらに雪斎は、当寺住持の任にありながら戦国大名今川氏軍師として、義元の下で政治・軍事外交秀でた手腕発揮してこれを補佐した当寺がある賤機山麓の大岩には、6代範政墓所今林寺、7代範忠墓所の宝処寺、8代義忠墓所長保寺さらには義元桶狭間での戦死後12代氏真が義元墓所として建立した天沢寺など多く歴代今川氏縁の寺院があったとされるが、その多く廃寺となり当寺吸収されている。そのため当寺には、氏輝・義元らの墓所があるとともに歴代今川当主位牌安置されている。 1918年大正7年)『静岡案内』「臨済寺安倍郡安東村大岩在り本尊名工春日の阿弥陀仏安置す、京都妙心寺派にして県下屈指の巨刹なり。元と善得院と号し享保の頃、僧承芳創建なり。天文5年今川氏親の子氏輝を葬り臨済寺殿と称せを以て大龍臨済寺改めしなり。当時、僧太原、この寺に住し今川氏執権兼ね太原光国師(大休)を師とし、請して開山となし自ら二世となる。国師後奈良天皇の御帰依受く、因て勅願寺となす現に之を蔵すまた、竹千代丸(家康幼名今川氏に質となり駿河在りし頃、太原を師として書を学び兵を講ぜりと云う。 — 浦田張洲編『静岡案内』「臨済寺」、1918年大正7年2月発行より抜粋

※この「今川時代」の解説は、「臨済寺 (静岡市)」の解説の一部です。
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