今川時代
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享禄年間(1528年 – 1532年)に、今川氏親が、出家した子・栴岳承芳(せんがくしょうほう、後の今川義元)のために、母・北川殿(今川義忠室、伊勢宗瑞姉)の別邸跡に、太原雪斎(たいげんせっさい)を招き建立した寺院・善得院が前身である。 天文5年(1536年)、栴岳承芳の兄・今川氏輝が急逝したため、今川家の家督を巡る「花倉の乱」が起こった。この内訌で弟の玄広恵探を破り家督を次いだ今川義元は、同年、氏輝を当寺に葬った(法名・臨済寺殿用山玄公)。この際に、「善得院」を氏輝の法名に由来する「臨済寺」と改め、京都妙心寺霊雲院の大休宗休を開山とした。そして、実際の運営を掌る2代目の住持として、大休宗休の弟子・太原崇孚雪斎が招かれた。 雪斎は、当寺を駿河の勅願寺に昇格させた上、天文23年(1554年)には「歴代序略」臨済寺雪斎書院刊を出版するなどして今川領国内に臨済宗を広げたため、寺勢は大いに興隆した。さらに雪斎は、当寺の住持の任にありながら、戦国大名・今川氏の軍師として、義元の下で政治・軍事・外交に秀でた手腕を発揮してこれを補佐した。 当寺がある賤機山麓の大岩には、6代範政墓所の今林寺、7代範忠墓所の宝処寺、8代義忠墓所の長保寺、さらには義元の桶狭間での戦死後に12代氏真が義元墓所として建立した天沢寺など多くの歴代今川氏縁の寺院があったとされるが、その多くが廃寺となり当寺に吸収されている。そのため当寺には、氏輝・義元らの墓所があるとともに、歴代今川当主の位牌が安置されている。 1918年(大正7年)『静岡案内』「臨済寺」安倍郡安東村大岩に在り、本尊は名工春日の作阿弥陀仏を安置す、京都妙心寺派にして県下屈指の巨刹なり。元と善得院と号し享保の頃、僧承芳の創建なり。天文5年、今川氏親の子氏輝を葬り臨済寺殿と称せしを以て大龍山臨済寺と改めしなり。当時、僧太原、この寺に住し今川氏の執権を兼ね、太原本光国師(大休)を師とし、請して開山となし自ら二世となる。国師、後奈良天皇の御帰依を受く、因て勅願寺となす現に之を蔵す。また、竹千代丸(家康公幼名)今川氏に質となり駿河に在りし頃、太原を師として書を学び兵を講ぜりと云う。 — 浦田張洲編『静岡案内』「臨済寺」、1918年(大正7年)2月発行より抜粋 ー
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