今川家当主とは? わかりやすく解説

今川家当主

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 01:20 UTC 版)

今川氏親」の記事における「今川家当主」の解説

延徳3年1491年)、堀越公方足利政知死去した後に堀越公方内部内紛発生し、一旦は京都戻っていた伊勢盛時も再び駿河下向している。 明応元年1492年)、甲斐国では守護武田信昌嫡男の信縄に当主追われ、信昌や穴山信懸次男の信恵を後継者立てて信縄と争った氏親諏訪頼満と共に信昌を助けるために甲斐出兵した。その後穴山氏氏親従属約束をしている。この武田氏政変今川氏諏訪氏介入背景には足利政知没後堀越公方内紛関わりがあるという見解出されている。 その後堀越公方内紛続き明応2年1493年)に11代将軍足利義澄の命により、宗瑞(出家して盛時より改名)は義澄の異母兄足利茶々丸討伐して、伊豆手中にした。氏親も宗瑞に兵を貸してこれを助けている。これは管領細川政元起こした明応の政変連動した動きであった以後氏親と宗瑞は密接な協力関係持って支配領域拡大を行うことになる。 駿河国隣国遠江は元は今川氏守護職継承していたが、後に斯波氏奪われていた。遠江奪還今川氏悲願となり父は遠江での戦いで命を失っている。当主となった氏親積極的に遠江への進出図り守護斯波義寛対立した遠江への侵攻の兵を率いたのは宗瑞で、明応3年1494年)頃から始まり遠江中部まで勢力下に収めた。宗瑞は更に兵を進めて文亀年間1501年 - 1504年)には三河岩津城(愛知県岡崎市岩津町)の松平氏攻めているほか、牧野古白滅ぼして奥平貞昌従属には成功している。同じ頃甲斐都留郡にも出兵して郡内領主小山田氏守護武田氏戦っている。一方氏親も宗瑞の関東進出にも協力して長享の乱介入し扇谷上杉家味方して山内上杉家戦った永正元年1504年)の武蔵立河原の戦いに宗瑞と共に出陣し関東管領上杉顕定破っている。 永正2年1505年)頃に中御門宣胤の娘(後の寿桂尼)を正室迎える(この頃より修理大夫称す)。永正3年から5年1506年 - 1508年)には再び宗瑞率い今川軍三河侵攻し松平長親(長忠)と戦い岩津城下井田野(愛知県岡崎市井田町)で敗れたものの、結果的に岩津松平家衰退して長親の安祥松平家台頭することになった永正6年1509年以降は宗瑞の今川家武将として活動がなくなる。この頃に宗瑞は政治的に今川家から独立したようで、以後関東進出本格化させる。ただし、その後少なくとも永正9年1512年)頃まで宗瑞が駿府訪問し同年発生した長尾景春駿河亡命にも宗瑞が関与しているとみられることから、宗瑞と今川氏の関係はその後続いていたと考えられている。 永正年間に入ると、足利義澄後見人であった細川政元斯波義寛上杉顕定連携働きかけるようになり、氏親と宗瑞は次第に義澄と距離を取り始めて従兄弟である前将軍足利義稙との関係を図るようになる永正5年、義澄が義稙将軍職奪われると、正式に幕府将軍家から遠江守護に任じられ遠江支配大義名分得た永正8年1511年)に遠江尾張守護斯波義達今川方の刑部城(現在の静岡県浜松市)を攻めると出陣してこれを退けたが、義達はなおも攻撃続け遠江での斯波氏との戦い激化した永正13年1516年)に三河吉良氏家臣大河内貞綱引馬城現在の浜松市)にて兵を挙げ、義達も加わる。氏親出陣し引馬城包囲永正13年1517年)、氏親安倍金山鉱夫用いて坑道掘って水の手絶って引馬城降伏させた。貞綱は討ち死にし、義達は出家して降伏し尾張送り返された。これにより、遠江平定された。ただし、今川氏吉良氏分家であり、格式的には今川氏の方が下位であったこのため、後に今川氏氏親長女徳蔵院吉良義堯嫁がせることで和睦図っている。 また、永正12年1515年)には、甲斐西郡国人領主である大井信達味方して守護武田信虎争い中道往還沿いの勝山城一時占拠している。永正14年1517年)、氏親信虎和議を結び撤兵し、信達は信虎降伏したその後も、氏親後期甲駿同盟成立するまでたびたび甲斐へ侵攻行い武田氏との対立続いた氏親新たな領国となった遠江支配固めるために永正15年1518年以降検地実施している。また、安倍金山開発して財力増した公家出身寿桂尼との結婚によって京とのつながり強まり、京の文化駿府取り入れたとされる氏親和歌連歌を特に好んだ晩年中風かかって寝たきりになり、寿桂尼政治補佐した。死の2ヶ月前の大永6年1526年4月戦国時代代表的な分国法今川仮名目録』を制定している。嫡男氏輝がまだ成人していないため、家臣争い抑える目的であった検地実施分国法制定によって、氏親の代に今川氏守護大名から戦国大名段階移ったと言われている。 大永6年1526年6月23日氏親駿府今川館息を引き取った氏親葬儀増善寺執行され、7,000人の僧侶参加し葬儀喪主である氏輝が祭文読みの綱は善徳寺御曹司栴岳承芳(後の今川義元)、御位牌花倉御曹司玄広恵探がもって曹洞宗最高の法式行われた。『増善寺殿法事記録』『今川氏親公葬記』に葬儀詳細記録され現存している。

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