今川家当主
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延徳3年(1491年)、堀越公方足利政知が死去した後に堀越公方内部で内紛が発生し、一旦は京都に戻っていた伊勢盛時も再び駿河に下向している。 明応元年(1492年)、甲斐国では守護武田信昌が嫡男の信縄に当主を追われ、信昌や穴山信懸は次男の信恵を後継者に立てて信縄と争った。氏親は諏訪頼満と共に信昌を助けるために甲斐に出兵した。その後、穴山氏は氏親に従属の約束をしている。この武田氏の政変と今川氏・諏訪氏の介入の背景には足利政知没後の堀越公方の内紛と関わりがあるという見解も出されている。 その後も堀越公方の内紛が続き、明応2年(1493年)に11代将軍足利義澄の命により、宗瑞(出家して盛時より改名)は義澄の異母兄足利茶々丸を討伐して、伊豆を手中にした。氏親も宗瑞に兵を貸してこれを助けている。これは管領・細川政元が起こした明応の政変に連動した動きであった。以後、氏親と宗瑞は密接な協力関係を持って支配領域の拡大を行うことになる。 駿河国の隣国・遠江は元は今川氏が守護職を継承していたが、後に斯波氏に奪われていた。遠江奪還は今川氏の悲願となり父は遠江での戦いで命を失っている。当主となった氏親も積極的に遠江への進出を図り、守護斯波義寛と対立した。 遠江への侵攻の兵を率いたのは宗瑞で、明応3年(1494年)頃から始まり、遠江中部まで勢力下に収めた。宗瑞は更に兵を進めて文亀年間(1501年 - 1504年)には三河岩津城(愛知県岡崎市岩津町)の松平氏を攻めているほか、牧野古白を滅ぼして奥平貞昌の従属には成功している。同じ頃甲斐都留郡にも出兵して郡内領主の小山田氏や守護の武田氏と戦っている。一方、氏親も宗瑞の関東進出にも協力して長享の乱に介入し、扇谷上杉家に味方して山内上杉家と戦った。永正元年(1504年)の武蔵立河原の戦いに宗瑞と共に出陣して関東管領・上杉顕定を破っている。 永正2年(1505年)頃に中御門宣胤の娘(後の寿桂尼)を正室に迎える(この頃より修理大夫を称す)。永正3年から5年(1506年 - 1508年)には再び宗瑞率いる今川軍が三河へ侵攻して松平長親(長忠)と戦い、岩津城下井田野(愛知県岡崎市井田町)で敗れたものの、結果的には岩津松平家は衰退して長親の安祥松平家が台頭することになった。 永正6年(1509年)以降は宗瑞の今川家の武将として活動がなくなる。この頃に宗瑞は政治的に今川家から独立したようで、以後は関東進出を本格化させる。ただし、その後も少なくとも永正9年(1512年)頃まで宗瑞が駿府を訪問し、同年発生した長尾景春の駿河亡命にも宗瑞が関与しているとみられることから、宗瑞と今川氏の関係はその後も続いていたと考えられている。 永正年間に入ると、足利義澄の後見人であった細川政元が斯波義寛と上杉顕定の連携を働きかけるようになり、氏親と宗瑞は次第に義澄と距離を取り始めて、従兄弟である前将軍足利義稙との関係を図るようになる。 永正5年、義澄が義稙に将軍職を奪われると、正式に幕府と将軍家から遠江守護に任じられ、遠江支配の大義名分を得た。永正8年(1511年)に遠江・尾張守護の斯波義達が今川方の刑部城(現在の静岡県浜松市)を攻めると出陣してこれを退けたが、義達はなおも攻撃を続け、遠江での斯波氏との戦いが激化した。 永正13年(1516年)に三河吉良氏家臣の大河内貞綱が引馬城(現在の浜松市)にて兵を挙げ、義達も加わる。氏親は出陣して引馬城を包囲。永正13年(1517年)、氏親は安倍金山の鉱夫を用いて坑道を掘って水の手を絶って引馬城を降伏させた。貞綱は討ち死にし、義達は出家して降伏し、尾張へ送り返された。これにより、遠江が平定された。ただし、今川氏は吉良氏の分家であり、格式的には今川氏の方が下位であった。このため、後に今川氏は氏親の長女徳蔵院を吉良義堯に嫁がせることで和睦を図っている。 また、永正12年(1515年)には、甲斐西郡の国人領主である大井信達に味方して守護・武田信虎と争い、中道往還沿いの勝山城を一時占拠している。永正14年(1517年)、氏親は信虎と和議を結び撤兵し、信達は信虎に降伏した。その後も、氏親後期に甲駿同盟が成立するまでたびたび甲斐への侵攻を行い、武田氏との対立が続いた。 氏親は新たな領国となった遠江の支配を固めるために永正15年(1518年)以降、検地を実施している。また、安倍金山を開発して財力を増した。 公家出身の寿桂尼との結婚によって京とのつながりが強まり、京の文化を駿府に取り入れたとされる。氏親も和歌と連歌を特に好んだ。晩年は中風にかかって寝たきりになり、寿桂尼が政治を補佐した。死の2ヶ月前の大永6年(1526年)4月に戦国時代の代表的な分国法『今川仮名目録』を制定している。嫡男氏輝がまだ成人していないため、家臣の争いを抑える目的であった。 検地の実施と分国法の制定によって、氏親の代に今川氏は守護大名から戦国大名の段階へ移ったと言われている。 大永6年(1526年)6月23日、氏親は駿府の今川館で息を引き取った。氏親の葬儀は増善寺で執行され、7,000人の僧侶が参加し、葬儀の喪主である氏輝が祭文を読み、棺の綱は善徳寺の御曹司・栴岳承芳(後の今川義元)、御位牌は花倉の御曹司・玄広恵探がもって曹洞宗最高の法式で行われた。『増善寺殿法事記録』『今川氏親公葬記』に葬儀の詳細が記録され現存している。
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