今川家の時代
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朝比奈家の出自であるが、今川義元・氏真父子を支えた朝比奈泰能や泰朝父子とは別系統とされる。現在の静岡市清水区所蔵の『朝比奈系譜』によると、信置は朝比奈元長(親徳)の嫡子とされている。ただし、その後の研究によって信置の父の正しい名前は「親徳」であることが確定したことで、「元長」は信置の今川家臣時代の名前だったのではないか、とする説もある(「親徳」が今川氏親からの一字拝領と考えられるため、「元長」も同じく今川義元からの一字拝領と考える立場から)。 天文17年(1548年)の小豆坂の戦いでは先陣を務め、手柄を立てた。また、『甲陽軍鑑』によれば、山本勘助を義元に推挙した人物とされる。 永禄12年(1569年)、武田信玄の駿河侵攻に際して武田方に帰属する。
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今川家の時代
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父の岡部親綱は今川氏の重臣であり、今川義元の家督相続に重要な役割を果たした。元信自身も遠江および三河の平定に大きく貢献した武将の1人。天文17年(1548年)の第2次小豆坂の戦いでは筋馬鎧に猪の立物をつけて力戦し、今川軍の勝利に貢献した。天文18年(1549年)の安祥城の戦いでも戦功を挙げる。 時期は不明だが、一時的に知行を没収され甲斐の武田信玄の元に身を寄せており、この際に信玄から「信」の偏諱を受けたとされる。通常武田氏の偏諱による「信」は上に置かれる例がほとんどであるが、当時元信は今川家臣であったから義元から下賜された「元」の字を優先したと深沢修平は述べている。深沢は桶狭間の戦い直後に出された元信宛の武田信玄書状から、元信が今川家臣時代から武田氏と深く関わりを持っていたことを指摘している。 永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いでは織田信長との最前線である鳴海城を拠点に、織田勢と戦いを繰り広げた。主君・今川義元が織田信長に討たれた後も抵抗し続け、信長が差し向けた部隊をことごとく撃退し、主君・義元の首と引き換えに開城を申し入れ、信長はその忠義に感動して義元の首級を丁重に棺に納めた上で送り届けたと伝わる。元信は義元の棺を輿に乗せて先頭に立て、ゆうゆうと鳴海城を引き払った。そして駿府へ帰還する途次、戦功の無いまま帰るを良しとせず刈谷城を100余の手勢で攻撃し、水野信近を討ち取り、城を焼き払った。この元信の奮戦を氏真は喜び、6月8日付で元信に対し感状を与えている。この際に以前没収された知行を還付されたが、旧領の相続を巡って弟二人と訴訟問題となったらしい。 義元の没後も元信は引き続き今川氏に仕えたが、永禄11年(1568年)12月、武田信玄の駿河侵攻によって氏真が駿府を追われる。元信は当初氏真と行動を共にし後北条氏の元に身を寄せたが、後に武田氏に降伏した。
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