武田信玄の駿河侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 00:32 UTC 版)
武田信玄は昌幸の父・幸綱にも劣らぬ才能を見抜いていた。『軍鑑』によれば、元亀元年(1570年)に武田軍が伊豆に侵攻して韮山城を攻めている時、北条氏政が援軍の指揮を執り箱根を越えて三島に着陣したので、信玄は決戦を主張した。これに状況を見極めるべきではと慎重論を唱えた馬場信春に、「信玄の両眼の如き者たちを物見に派遣しておる」と信玄は答えた。諸将が信玄の両目に比肩される武将は誰なのかと訝しんでいると、まもなく曽根昌世と昌幸が帰還して報告をして、その両名が両眼であることがわかった。この話に出てくる昌世がそうであるように、昌幸も、父と兄の信綱、昌輝と並び、武田二十四将にも数えられる事があり、父と兄弟3人が武田二十四将に数えられるような家は、この真田家だけである。
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