武田信玄家臣の工藤氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 14:37 UTC 版)
信虎の家臣には、『武田三代軍記』によると工藤虎豊がおり、信虎の子・武田信玄の譜代家老には、虎豊の子である工藤昌祐(長門守)と、その弟の工藤祐長(大和守昌秀)がいた。昌秀は上野国箕輪城の城代を務めている。昌秀の初名は「工藤源左衛門尉」で、永禄12年(1569年)頃には「内藤修理亮」に改名している。 昌祐は箕輪城に在城し、昌秀の代わりを務めていたと考えられている。天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで昌秀が死去した後も箕輪城に在城し、城代代行を務めていたと考えられている。天正7年(1579年)には昌秀の養子・昌月が箕輪城代として赴任するとこれを補佐する。 工藤喜盛(玄随斎喜盛)は天正8年(1580年)に原貞胤とともに奉行を引き継いだ。 なお、工藤昌祐と工藤喜盛は同一人物とする説と、別人とする説がある。
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