武田信玄・上杉謙信の一騎討ち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 00:36 UTC 版)
「一騎討ち」の記事における「武田信玄・上杉謙信の一騎討ち」の解説
戦国期に越後国の上杉謙信と甲斐国の武田信玄は信濃国北部の領有を巡り川中島の戦いを繰り広げているが、近世初頭に原本が成立した『甲陽軍鑑』や『北越軍談』などの軍学書によれば、第四次川中島の戦いにおいては信玄・謙信が一騎討ちを繰り広げたという。 第四次川中島の戦いの実態については残存文書が少なく、一騎討ちが実際に行われたかは不明。『甲陽軍鑑』に拠れば、白手拭で頭を包み、萌黄の胴肩衣姿で月毛の馬に乗った武者が床几の信玄に三太刀切りつけ、信玄は床几から立ち上がるとこれを軍配で受け止め、御中間頭・原大隅守(原虎吉)が槍で馬を突き、騎馬武者は走り去った。後にこの騎馬武者が上杉謙信であると判明し、信玄の軍配には八太刀の傷があったという。 一方、上杉側の『北越太平記』(『北越軍談』)では信玄と謙信の一騎討ちは御幣川において行われ、両者は太刀を交え、信玄が手に傷を負い退いたとしている。また、異説として信玄は軍配で太刀を受けたとする説を記す。さらに、『北越太平記』では大僧正・天海の目撃談も記している。 信玄・謙信の一騎討ちは文学や浄瑠璃などにおいても好んで描かれ、浮世絵の画題にもなった。
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