武田信玄の水中墓伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 14:34 UTC 版)
戦国時代に甲斐国の武田氏と信濃諏訪氏は同盟関係にあったが、天文11年(1542年)に武田晴信(信玄)は諏訪侵攻を行い、諏訪氏は滅亡し諏訪地方は武田領国化される。信玄は元亀4年(1573年)4月12日に信濃国伊那郡駒場(長野県下伊那郡阿智村駒場)で死去する(死没地を浪合・根羽とする説もある)。信玄の遺体は駒場もしくは甲斐の円光院で火葬され、天正4年(1576年)に甲斐の恵林寺で後継の勝頼により正式に葬儀が実施される。 一方、『甲陽軍鑑』に拠れば信玄は死去に際して「自分の死を三年間秘密にせよ。その後、遺骸は甲冑を着せて諏訪湖に沈めよ」と遺言したという。このため諏訪湖には古くから信玄の水中墓伝説があった。『甲陽軍鑑』では他に勝頼がその子・信勝の陣代となることも遺命したとされ、諏訪湖に遺体を沈めた以外の点に関しては、文書上の所見がある。 1986年(昭和61年)、国土地理院のソナーによる湖底地形調査では、湖底に一辺が25mとされる菱形の“物体”が発見された。これが信玄の水中墓ではないかとされ、信州大学、読売新聞、日本テレビなど複数の団体が10数年にわたって調査を行った。電磁波探知機により墓標のような立体が確認されたとも報道されたが、最終的には謎の菱形は湖底の窪地の影であるとの結論が出された。しかし、問題の菱形が自然にできたとは思えない程はっきりとした形をしており、湖底は泥が深く目視による実地調査が困難であることから、水中墓説を支持する声は現在でも多い。
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