武田信玄の時代の栗原氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 10:13 UTC 版)
武田氏の譜代家老として栗原伊豆守の活動が見られる。系図類によれば、同じ伊豆守を称する栗原信友の子息・栗原信重にあたると考えられている。『甲陽軍鑑』に登場する「栗原左兵衛」とする説もある。伊豆守の初見は永禄11年(1568年)3月で、伊豆守は武田勝頼に今川義元の生母である寿桂尼の死去を伝え、勝頼が出陣中の信玄にこれを伝えている。さらに同年8月に伊豆守は武田氏の駿河侵攻に際していずれかの城の普請を命じられている。永禄末年に推定されている武田信玄陣立書では旗本に属している。天正3年(1575年)8月には織田氏・徳川氏に対して信濃伊那郡・木曽郡の防備のため日向玄徳斎(虎頭)・小山田昌盛とともに伊那の大島城(長野県下伊那郡松川町)へ派遣されている。
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