武田信玄との連携とは? わかりやすく解説

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武田信玄との連携

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 03:31 UTC 版)

浅井長政」の記事における「武田信玄との連携」の解説

元亀3年1572年7月信長北近江来襲した。長政朝倉義景援軍要請、義景は1万5,000軍勢率い近江駆けつけた。信長との正面衝突はならず睨み合い続いたが、浅井朝倉連合軍織田軍に数で劣っており、依然として苦し状況であった同年9月将軍足利義昭要請応える形で武田信玄がやっと甲斐国進発する。信玄はこの時、長政・久政親子宛に「只今出馬この上猶予なく行(てだて)に及ぶべく候 」という書状送っている。 同年10月宮部城の宮部継潤羽柴秀吉調略降伏その後信玄参戦機に北近江信長主力岐阜移動した隙を突き虎御前山砦羽柴隊に攻撃仕掛けるも撃退されてしまう。その後信玄遠江織田徳川連合軍撃破し三方ヶ原の戦い)、三河進んだ同年12月北近江長政領に在陣の朝倉義景の軍が、兵の疲労積雪理由越前帰国した信玄は義景の独断激怒し再出兵を促す手紙伊能文書)を義景に送ったが、義景はそれに応じず、黙殺態度示した。それでも信玄は義景の再出兵を待つなどの理由軍勢止めていたが、翌年2月には進軍再開し家康領の野田城攻め落とす。しかし、信玄急死により、武田軍甲斐退却した。これにより包囲網一部破綻し信長大軍勢を近江越前に向ける事が可能になった。

※この「武田信玄との連携」の解説は、「浅井長政」の解説の一部です。
「武田信玄との連携」を含む「浅井長政」の記事については、「浅井長政」の概要を参照ください。

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