武田信玄との戦い
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永禄11年(1568年)、義元没後の今川氏の衰退を受けて、従来の外交方針を転換させた武田信玄が駿河侵攻を行ったことにより、三国同盟は破棄された。今川軍は武田軍に敗北、さらに徳川軍の侵攻を受けて掛川城に追い詰められる。北条家は娘婿の今川氏真を支援をする方針を固め、氏政が駿河に出兵、薩多峠にて武田軍と対峙する。氏康は信玄が徳川の不信を買ったことを利用し徳川との密約を結び、駿河挟撃の構えをとった。さらに富士信忠が大宮城に攻撃を仕掛けた武田軍を退けたことにより、信玄はこの状況での駿河防衛は困難と判断、一旦駿河国から軍を退き甲斐国へと退却した。北条氏は興国寺城、葛山城、深沢城など東駿河を奪取した。氏康と信玄の敵対関係は決定的となり、甲相同盟は破綻した。 氏康は、西に武田氏、北に上杉氏、東に里見氏と3方向を敵勢力に囲まれる危機的状況に陥る。この苦境を乗り切るべく駿河出兵を決めると同時に、上杉氏との同盟交渉を開始(大石氏照書状)。この頃、西上野一円は武田領化しており、謙信の上野における支配域は沼田と厩橋など主に東上野のみとなっていた。さらに謙信の目は越中国に向けられていた。謙信は当初、討伐対象であった北条氏との同盟に乗り気でなかったが、家臣の説得もあり態度を軟化。既に纏まっていた今川家と上杉家の同盟に乗る形で交渉を始め、謙信の旧臣・由良成繁を仲介役に、石巻天用院を使者として、永禄12年(1569年)に上杉謙信との同盟である越相同盟を結んだ。これにより謙信は氏康の甥である足利義氏を関東管領の主である古河公方として、また氏康・氏政は、謙信を公方の執事たる関東管領職であるとお互いに認め、上野・武蔵北辺の一部の上杉氏領有を認める代わりに、謙信に北条氏による相模・武蔵大半の領有を認めさせた。北条方は氏康の実子・三郎(後の上杉景虎)、上杉方は謙信の家臣・柿崎景家の実子・晴家が人質とされた。 この越相同盟は、両家の停戦という意味では成功を収めた。しかし同時に謙信に対する反北条派の里見氏や佐竹氏、太田氏といった関東諸大名・豪族の不信感を生み、彼らは上杉氏から離反し武田氏に与してしまった。さらに信玄が信長・将軍足利義昭を通じて越後上杉氏との和睦(甲越和与)を試み、同年8月には上杉・武田両氏の和睦が一時的に成立した。また上杉が甲越和与を解消した後も北条・上杉両氏による同盟条件の不調整・不徹底のため、北条・上杉両軍の足並みは乱れることが多かった。 永禄12年(1569年)9月、武田軍が武蔵国に侵攻する。これに対し、鉢形城で氏邦が、滝山城で氏照が籠城し武田軍を退け、武田軍はそのまま南下、10月1日には小田原城を包囲する。しかし氏康が徹底した籠城戦をとり、武田軍にも小田原城攻略の意図はなかったため、わずか4日後、城下町に火を放ったのち撤退する。氏康は撤退する武田軍に対し挟撃を謀り、氏政を出陣させるが、荷を捨て身軽になってまで迅速に行軍した武田軍に対して、氏政隊の追撃が間に合わず、本隊到着前に三増峠に布陣する氏邦・氏照隊が攻撃を開始し挟撃はならなかった。緒戦は優位に押したが、武田別働隊による高所からの奇襲を受け、加えて津久井城も武田方に抑えられて援軍が出陣できず、突破され敗退。武田家譜代家老の浅利信種を討ち取ったものの、武田軍の甲斐帰還を許す結果になった(三増峠の戦い)。その後、武田は再度駿河国に出兵、対する北条は里見氏の勢力回復や氏康の体調悪化に伴い、興国寺城・東駿河はかろうじて保つものの、駿河国での戦いは武田に押されていった。
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